「エリザベス」

エリザベス
1998年公開/イギリス

エリザベス一世のイメージはといえば、まず頭に浮かぶのは、世界史の教科書に載っていた肖像画の写真です。その中での彼女は、豪華な装飾品やドレスを身にまとい、これでもかというほどの威厳をかもし出していますが、一方でその表情は、おそろしいほど精気がなく、まるで精巧にできたロボットのような顔をしています。
学生時代のわたしは、世界を制した大英帝国を築き上げた女王が、なぜここまでつまらなそうな顔をしているのか疑問に思ったものの、そんな仏頂面の彼女よりも、むしろその人生に悲劇的な面が多く、人間臭さを感じさせるメアリ一世やメアリ・オブ・ギースやその娘メアリー・スチュアート(メアリばかりだけど同一人物ではありません。前者はエリザベスの異母姉で、後者はスコットランド女王の母娘)といった、彼女と対立する人物のほうに、感情移入をしていたものです。
というわけなので、正直、この映画を観る前には、エリザベス一世という人物には、さほど興味も思い入れもあるわけじゃなかったのですが、映画を観始めて、ケイト・ブランシェット演じるエリザベスが出てきた瞬間に、これはぼくが知っているエリザベス一世ではないと思いました。そこにいるのは、男性と恋をし、ダンスに興じる、ごくごく普通の若い女性で、表情だって、ときには明るくはにかんでみたり、ときにはむくれてほほを膨らませたりと、観るものの目を一瞬で集められるぐらいに豊かなんですよね。
そんなエリザベスの姿を見ているうちに、わたしは、てっきりこの映画は、社会的に認知されているエリザベス一世を、違った見せ方をすることによって、一石を投げかけるような物語なのかな、と思いました。しかし映画を観ているうちに、わたしは自分の考えの過ちに気がつき、この映画が何を描きたいのかということがわかってきたのです。
 この映画が描きたかったこと。それはエリザベスの表情の変遷です。エリザベスは、あれほどまでに最初は可憐であったのに、謀略の中で身をやつし、裏切られ、迫られ、傷ついていくうちに、その表情に柔らかさが消え、気がついたときには、無表情で、無感情な、わたしが知っている、あの肖像画のエリザベスになっていくのです。
わたしは、髪を切り、淡々と化粧を従者にさせるエリザベスを観ながら、この映画はなんて大胆な映画なのだと思いました。普通、映画の論理ながら、主人公は成長するのが常なのだが、この映画のヒロインは、世間的には強くなり、これから時代を迎えようというのに、諦念の塊のような人間になっていくのです。しかもまるでそうなることによってしか、女性は絶対君主などにはなれないといった様子で。
女は本物の女王になるために、いかに女を捨てるに至ったか。一言で言えば、この映画のテーマは、こんな感じになるのでしょう。とにかく歴史上の人物とは、こうやって作られていくのだという様子を、ただ歴史を辿るだけでなく、あくまで人物の内面を丁寧に描き出すことによって表現した、この映画は、すこぶる秀逸な作品だと思います。
 ただ一つだけ残念だったのが、あまりに映画として成立させるがために、本当の史実とズレがあったり、誤解を招くようなところがいくつかあったところですかね。たとえば映画は、エリザベスがメアリ一世に迫害を受けるところから始まり、どうしてもエリザベス目線になってしまうところなのですが、それより以前は、立場が逆で、メアリ一世がエリザベスの従者をさせられていた時代があったことをチラッとでもいいから描いてほしかったです。
そうすれば、メアリ一世がなぜあれほどエリザベスに怯えているのかがわかるのだし、それとスコットランド王メアリ・オブ・ギースについても、映画の中ではあっさりと暗殺(?)されてしまうのですが(実際、暗殺されたという事実はない)、ここはメアリー・スチュアートも含めて、この二人の確執をもう少し丁寧に描いてほしかった気がします。
それにしても、この映画の監督って、インド人なんですよね。絶対生粋のイギリス人が撮っていたんだと思っていたのですが、面白いですね。
それと一応触れておきますが、エリック・カントナ。サッカーファンにはおなじみの名前ですが(元仏代表、マンUなどに所属)、いつの間にか役者になってたんですね。しかもこの手の映画に出ているとは。どっちかって言うと、得意のカンフーキックで、ハリウッド映画とかに出ていそうですけれど。