人はなぜジブリ作品に共感するのか。宮﨑駿の「ドーラの法則」

ジブリと言えば、日本人ならほぼ誰もが何らかの作品を観ているスタジオジブリの作品ですね。
しかもたいていの場合、みんなジブリが好きです。好きじゃなくても、何となく心を持っていかれた経験が多いと思います。

それにしても、何で人はこんなにもジブリに惹かれるんでしょうかね?
子どもが二人生まれてから、改めてジブリ映画の数々を何度も何度も観直していったのですが、そのうちに宮﨑駿監督の作品(特に初期の作品)には一つの法則があることに気が付きました。
それがわたしが勝手に「ドーラの法則」と呼んでいるものです。
ドーラとは、ジブリファンならすぐにわかると思いますが、そうです、「天空の城ラピュタ」に出て来る海賊一味の女ボスです。
で、この女海賊の名前を冠とした法則とは何だ?という話になると思いますが、ようするに一つの物語の構成方法です。
その特徴的な構成方法がもしや宮﨑アニメに人が引きつけられる秘密の一つなんじゃないかと思ったのです。

具体的に「天空の城ラピュタ」を例にとって説明すると、まず物語の主人公はパズーとシータです。この男女の子供二人が物語を動かします。
ただこの二人の描き方で、よくよく見ると気づかされることなんですが、実はこの二人には主人公にありがちな「成長」はあまり見られないんですよね。
シナリオの学校などに通うと、「大抵は主人公の成長をいかに描くのか。そこを描くことこそがドラマだ」と教えられます。
これはあながち間違ってはいません。確かに大抵の映画やドラマ、アニメにおいては、主人公の未熟な部分がまずはフューチャーされて、いかにその主人公が物語を通して成長するか、そのギャップによってカタルシスを生み、人の感情を揺さぶります。
しかし、パズーとシータの二人は、子供らしさは残るものの、基本的な心の芯の部分は凛としていてブレません。一瞬、パズーがムスカに言い含められて、金貨を渡されて逃げ帰るというシーンがありますが、それだってすぐに持ち直してしまうのです。
主人公の「成長」を描いていない。じゃあ、一体にどこにカタルシスを感じているのか? 人は一体何に心を揺さぶられているのか。
ここが宮﨑監督のうまいところなんですが、あえて主人公の感情を追う形にするのではなく、主人公の動きをほかの人の目線から感じさせる構成にしているんですよね。
つまり、主人公とは違う人がブレない主人公の姿を見ることにして、成長していくという形をとる、そういう形で人の成長を描くことによって心を揺さぶっているのです。
そして「天空の城ラピュタ」において、その役割を担っているのが何を隠そう女海賊のドーラです。
ドーラは最初はまるっきり悪役として登場します。パズーやシータが彼女たち海賊から逃げ回るのを見ながら、観ている方としては完全に嫌な奴として認識されます。
でも、それがムスカというもっと嫌な奴が出てくると、それと入れ替わるようにしてパズーとシータはドーラたちの仲間になります。
この時点で、「このおばさん本当に大丈夫なのか?」と多くの人が急な展開に疑心暗鬼に陥りますが、パズーとシータが海賊一味と触れあっていく中で、「もしかしてこの人たちっていい人たちなんじゃないかって?」という気持ちに揺り動かされていきます。
そしてその中で、観客はドーラに微かに変化が起きていることを気づかされていくのです。
パズーやシータのセリフの節々に感ぜられる純粋さや決意の強さを知って、彼女は自分自身にも良心があることを思い出していくんですよね。
無意識のうちに、このドーラの心の変化に人は驚かされるとともに、感情移入をしてしまいます。
いわゆる不良がいいことをすると、実はものすごいいい人なんじゃないかって思ってしまう論理も加わっていることは否めませんが、とにかく観ている人にとってはドーラはもはや敵ではなく、むしろいつの間にかドーラの視点でパズーやシータのことを知らないうちに観てしまっているんですよね。
その後ラピュタに着き、ドーラはその中でパズーやシータが大人の勝手な振る舞いに対して、めげずに勇気をもって滅びの呪文を唱えたことを知ります。
そして、パズーとシータが生きて戻ってきたときのドーラは……
みなさん、覚えてますよね。そこに女海賊の威厳はなく、もはやお母さんのようにシータを抱きしめるのです。
ここまできたら、もう観ている人は完全にドーラと一体になって、シータを抱きしめています。
たぶんほとんどの人が意識することなく、ドーラの感情の線に沿って途中から物語にグイグイと入り込んでいき、ドーラの視点を持ってカタルシスを感じているんですよね。

例として挙げたのは「天空の城ラピュタ」ですが、宮﨑作品の中では多くこの「ドーラの法則」が用いられたパターンが使われています。
わかりやすいところでは、「風の谷のナウシカ」におけるクシャナがそうですね。
ナウシカとあくまで対照的に描かれるトルメキアの王女クシャナですが、ドーラと違ってあくまで冷静ですが、物語が近づくにしたがって、自分とは違うナウシカに惹かれ、興味を持ち、それが彼女自身の行動に現れてきます。
ほかには「もののけ姫」におけるエボシ御前ですね。彼女もアシタカの一環とした行動を観ることによって、結局は考えを少し変えます。
わかりにくいところでは、「千と千尋の神隠し」の坊もそうですね。湯婆婆の子どものデカい赤ちゃんですね。
この作品では確かに千尋も自立して変わっていきますが、その自立をした千尋と一緒に行動するにしたがって、暴れているだけの赤ちゃんだった彼自身も、物語の最後ではすっかりと成長していくんです。
この物語においては、湯屋を変えることは実は千尋には出来なくて、千尋がいなくなった後に湯屋をもっといいものに変えることが出来る可能性を持つには、坊しかいないんですよね。そう言う意味で、密かに坊の成長を描くことで、物語そのものの先までもを想像させてくれるんですよね。

いやあ、ドーラの法則。侮れませんね。
確かにこのやり方だと、主人公にまるっきり感情移入していくよりは、物語そのものを俯瞰して観れますし、物語を俯瞰して観れるってことは、テーマそのものに感じやすくなりますし、その一方で主人公じゃないキャラによってほとんど無意識にカタルシスをもたらされているわけですから、ヘンな説教臭さも感じないっていう感覚になる訳なんです。しかもこの法則によって、主人公がより魅力的に見えてくるという利点もありますしね。
もちろんこの法則だけが宮﨑アニメが宮﨑アニメたる所以ではなく、奥深さが他にもあるからこそ語り継がれている作品になっているんだと思います。
ただ作り手には、意識的にしろ、無意識にしろ、癖というかやり方というものがあり、何度も観ていく中で巨匠のそういったものを探っていくというのも一つの映画の見方なのかもしれませんね。