日本歴代興行収入1位はなぜ「千と千尋の神隠し」なのか?

いやあ、「鬼滅の刃」すごいですね。
日本中でブームになっているばかりか、映画はあの「千と千尋の神隠し」が持つ日本歴代興行収入1位にも迫る勢いです。

でも、ふと思ったのですが、日本歴代興行収入1位が「千と千尋の神隠し」って聞いて意外に思った人も多いんじゃないでしょうか。
もちろん映画に詳しい人や、公開時に「千と千尋の神隠し」を観たという30歳以上くらいの人は当時のことを覚えているかもしれませんが、映画にそれ程詳しくない人や若い人にとっては、「あ、そうなんだ!」とビックリしたかもしれません。
ジブリってことはボンヤリわかっても、「トトロ」や「ナウシカ」ではなく、なぜ「千と千尋の神隠し」なのかって。

なぜ「千と千尋の神隠し」が日本歴代興行収入1位なのか、一般的に理由は大きく二つあると言われています。
まず宮﨑アニメの人気のピークがちょうど「千と千尋の神隠し」であったとこと。
確かに「トトロ」や「ナウシカ」などの初期の宮﨑アニメの方が好きだという人もたくさんいると思います。でも初期の作品の公開時には、まだ宮﨑アニメの良さを知る人はアニメに詳しい人に限られていて、今のように日本中が知るようになるまでにはそれなりに時間がかかったんですよね。それで、日本中に宮﨑駿の作品はすごいと広く認知され、それが興行収入という形で目に見えるようになったのがちょうど「千と千尋の神隠し」だったという話です。
これは確かにそうだと思います。作品の認知度と興行収入が必ずしも比例するわけではなく、また宮﨑アニメの場合、映画単体というよりも「ジブリ」や「宮﨑駿」という作りてそのものがブランド化していたので、そのブランドの影響力のピークがちょうど「千と千尋の神隠し」が公開された2001年だったのだと思います。
もう一つの理由は、ちょうどこの2000年前後というがシネマコンプレックスの数が日本中で一気に増えた時期なんですよね。ただ映画館がたくさん出来たのはいいのですが、公開できる映画の数は限られている。そこである程度客足が期待できる「千と千尋の神隠し」を選んでかける映画館が増え、それがロングランに繋がり興行収入につながったというわけです。これについては現在の「鬼滅の刃」がコロナ禍だからこそ、かける映画の数が減り、皆が「鬼滅」をかけるという現象と似ているかもしれません。

さて、以上の二つが一般的な「千と千尋の神隠し」が日本歴代興行収入1位たるゆえんの一般的な理由ですが、ただ思うのです。確かに宮﨑ブランドがピークに達した時期と、映画館の数が急増した時期が重なった幸運だけで、308億もの興行をたった一本の映画が叩きだせるものなのかと。そこには、幸運だけでなく、あのとき日本人が「千と千尋の神隠し」という映画の内容に大いに惹かれた理由があるのではないかと。

「千と千尋の神隠し」という映画を理解するために一つの足掛かりになる言葉があります。それは当時宮﨑監督がスタジオジブリに併設された保育園に遊びに来た9歳の女の子とのために作った映画だという話です。
字面だけ見ると、「9歳の女の子が楽しめる映画を作った」という意味になりますが、そこは巨匠がそのままの意味で言う訳はありません。そこには言い含んだ何かがあるのです。では、そこに言い含められた想いとは何なのか?そこにこそ、この映画が多くの人に受け入れられた理由があるんじゃないかと考えて探ってみたいと思います。
まずこの物語の内容を辿りながら考えてみましょう。神隠しによって、神様たちが安息のために訪れる銭湯油屋に9歳の人間の女の子である千尋が迷い込んでしまうことから始まります。湯屋の世界は厳しく、千尋は油屋で大人並みにしっかりと働かないと油屋の主人である湯婆婆に豚や石炭にすると脅されています。ここでこの映画のテーマが子供の自立であることがわかります。何不自由なく育った平均的な日本の子供である千尋がいきなり自分で働かなくっちゃ生きてさえいけない環境に急に放り込まれるのです。泣きたくてたまらない気持ちの千尋。しかし彼女を助けてくれようとする人たちが次第に現れてきます。

最初に出会った謎の少年、ハク。なんだかんだ言いながらも千尋を目にかけている釜爺。そして千尋に仕事を教えてくれる先輩同僚のリン。彼らの助けがあったたからこそ、千尋は人間として差別を受けながらもどうにか厳しい仕事をやり切って次第に自立した人になっていくのです。そんな中で恩人であるハクが湯婆婆にこき使われた末に始末されようとしている場面に千尋は出くわします。一般的な物語の展開であるならば、ハクを助けようとすると同時に、そんな非人道的なことをする湯婆婆を悪認定し、湯婆婆を倒して油屋の平穏を取り戻そうとする勧善懲悪の方向に向かいます。しかしこの物語では、あくまで湯婆婆は悪認定されません。むしろ千尋はハクが湯婆婆にさせられたことを被害者である銭婆に謝ることで事態をどうにかいい方向に打開しようと考えるのです。

この湯婆婆が悪認定されないということがこの映画の最大のポイントです。多くの観客が何に対して喜ぶのかを考えれば、湯婆婆を倒すという安易なカタルシスを求めた方が効率的です。でもこの映画はそれをしない。それはこの映画が言いたいことが正義や悪という単純に見方で物事をわかりやすく考えるのではなく、矛盾で塗れた複雑な現実社会の中で人がどう生きるべきかを問うているのです。宮﨑アニメのほかの映画と比べてみるとこのことがとてもよくわかります。「天空の城ラピュタ」の大まかな構造上はムスカという絶対悪を倒すという勧善懲悪です。しかし宮﨑監督は以前インタビューで絶対悪を描くということに対する抵抗感を口にしています。単純に物事が正義か悪で割り切れないことがわかっているのです。ですから、自らのブランド力が高まり、より自分がやりたいように作品作りが出来るようになったとき、あくまで現実世界に似た世界の中で主人公がどう生きるのかを描くことにこだわったのです。

つまりまず湯婆婆が本当に悪であるのかどうかをこの映画はまず問いかけています。確かに湯婆婆がやっていることはブラック企業さながらの酷い支配です。しかし、湯婆婆がいるからこそ、油屋の経営が成り立ち神様たちが休息出来るという事実があります。そうなってくると湯婆婆は単純に悪とは言えず、それは必要悪であり、社会にとっての存在意義が出てきてしまうのです。そう考えると、この映画を観る人は、これは現実世界にもある話だと無意識に感じていきます。湯婆婆に似たような経営者や上司は結構どこにでもいるのです。じゃあ、そんな世の中の矛盾を体現してるような人物である湯婆婆に千尋はどう立ち向かうのか。こここそがこの映画の一番言いたいテーマです。

千尋は湯婆婆を憎んで倒そうとするのではなく、あくまで自らの良心を信じ、その良心を持って行動することで状況を少しでも良くしようともがきます。そしてそんな千尋の直向きな行動によって、湯婆婆の息子である巨大な赤ちゃんである「坊」の気持ちに変化が訪れるのです。どうしょうもなく我儘に育った坊が千尋と行動することで湯婆婆のやり方に疑問に思うようになり、しっかりとした意見を持つまでに成長するんですね。千尋とハクのエピソードやカオナシの存在感に意識が引っ張られがちですが、実はさりげなくしか描かれていないこの坊の成長こそがこの物語の中でとても大きなポイントになっているんです。油屋を変えられる力は湯婆婆しか持っていません。千尋が契約を破って湯婆婆を直接倒してしまっては、それは力ずくという意味で湯婆婆とやっていることが変わらなくなってしまいます。しかしたった一つだけ湯婆婆によらずに油屋が変わる可能性があります。それは湯婆婆に影響力があり、油屋を継ぐであろう坊が油屋をまっとうな方向に導くことです。

かつて「夜と霧」を書いたヴィクトール・E・フランクルは人が何のために生きるのか?という問いに対し、人はほかの人に何のために生きるのかを考えさせるために生きているのだと答えていました。

確かにわたしたちは良くも悪くも他人の生き方を見て、自分の生き方を考えます。千尋が出来ることは、自分の良心に従って行動することで、坊やリンや釜爺などそれがわかる人にわかってもらうしかないんですよね。そして、そのことは現実社会にも当てはまります。社会や教育現場で自分ではどうしょうもない環境に追い込まれたとき、人はもはや良心に従うしか正解がありません。良心従って行動すれば、誰かが変わるかもしれないし、誰かが助けてくれるかもしれません。でも自分の中の良心に目を向けずに状況をただ受けいれているだけでは何も変わらないし、さらに良心に背いて悪事に加担をしてしまえば自分自身が人として堕ちていくだけです。

ただだからといって良心に従った結果、うまくいくとは限りません。現実社会においても強く権力を持ったものが力ずくで正論を口にする弱者を叩き潰すなんて話はいくらでもあります。しかしこうした場合においても、宮﨑監督は一つの方向性を指し示しています。それは最終盤に契約を破棄したい千尋に湯婆婆が迫るシーンです。湯婆婆は、千尋に自らが出した選択肢の中で正解を答えられれば契約を破棄できると言います。しかしそこで千尋が選んだ答えは湯婆婆が用意した選択肢からは答えを選ばないという選択です。つまりそれは自分の道は自分で決めるという意思表示のメタファーに他なりません。湯婆婆が用意した選択肢の中で生きるということは、あくまで湯婆婆の手のひらでしか生きられないということなのです。

去りゆく千尋にハクは決して振り返ってはいけないと言います。ブラック企業から何とか抜け出そうとしている時のことを想像すればわかりやすいでしょうか。自分が去ってしまうことで困る人が出てくるかもしれない。でもだからと言ってそこで残ってしまえば、それは力を振るう横暴な人間の思う壺になってしまうし、その横暴な人間から、失敗から学ぶチャンスを奪ってしまうことになってしまうかもしれません。大事なのは、あくまで自分が信じた道を自分自分自身で向き合うことなんですね。自分の良心が何であるのかを知ったら、たとえその場を去ることになっても前を向いて進むしかないんです。

以上が「千と千尋の神隠し」という物語のわたしなりの解釈です。さて、最初の話に戻りましょう。宮﨑監督はこの映画を保育園に遊びに来た9歳の女の子のために作ったと言っていました。でも、物語をこうして振り返ってみると、9歳の女の子がただ楽しむだけの映画ではないことはわかります。
ではもう一度問います。この映画に言い含まれたものは何なのか? なぜこの映画が日本歴代興行収入が1位になるほど売れたのか。
ヒントはこの映画が公開されたころの世相になります。2001年にこの映画が作られました。ということはその前の3年から4年ほどの間にこの映画が作られたことになります。この間に、一体何が起こったのか。それは、当時は気づかなかったものの、今ではだんだんと世間のみんなが気づいていったことがこのときにどんどんと決められていったんです。そうです。このときに派遣法がどんどんと規制緩和されていったんですね。一億総中流の世界から、格差社会に変貌し始めていったんです。
そもそも東映動画で労働組合を激しくやっていた宮﨑監督がこの流れに気づかない訳はありません。おそらく、これからどんな時代になるのか、だいたい想像がついていたんだと思います。でも、一人の映画監督に世界は変えられません。彼が出来ることは、これからの若者を応援することだけだったんです。

9歳の女の子が楽しむための映画。

派遣法によって非正規労働に追いやられる可能性は女性の方が多いです。ただでさえミソジニーが強い風土の中で、女性がこれからどう生きればいいのか?
確かに宮﨑監督は9歳のの女の子が楽しむ映画を作りました。
でも、それと同時に宮﨑監督はそのとき9歳だった女の子が大人になった時に、迷った時に道しるべになる映画を作ったのではないでしょうか。
そして、そんな宮﨑監督のメッセージをみんな無意識のうちにちゃんと感じとっていたんではないでしょうか。
だからみんな観たんです。
本当にすぐれた作品は、頭で理解させるのではなく、心に感じさせるものなんですね。

「鬼滅の刃」がこのままいけば、「千と千尋の神隠し」の記録を抜くかもしれません。
それはいいと思います。記録はいつか破られるものですし、そうした新しい作品が出てこないこと自体がまずいわけですからね。
でも、記録を抜かれたからといって、「千と千尋の神隠し」が色褪せるというわけではありません。
この映画は間違いなく十年、二十年先も観た人に前を向いて生きるための何かを与え続けてくれますからね。

同じ日本人として、こうした映画をライブで観れたことを本当に誇りに思います。

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