「#Eテレのために受信料払ってる」まさにその通りです。

「#Eテレのために受信料払ってる」がトレンド入り。高橋洋一氏のEテレ売却論に反対する声

菅政権の内閣官房参与に起用された高橋洋一・嘉悦大学教授による「Eテレ売却」の主張が波紋を呼んでいますね。
ただの一人の学者の主張ではなく、内閣官房参与の言葉だからこそ、みな敏感に反応しているのでしょう。

高橋氏の主張は、Eテレの周波数帯を売却して携帯電話の通信に利用すれば「通話だけではなく、多種多類の映像コンテンツを同時に配信できる」ということで、国民に対しても「受信料を大きく引き下げるメリット」があるのだと言います。
これに対して、N国党が現れて以来、何かとNHKのスクランブル放送化を主張するような、そもそもNHKを見ない人たちと、Eテレの価値を身をもって知っている人たちとの間で賛成・反対が真っ二つに分かれています。

わたしはというと、子育て世代な上に、そもそもテレビはほとんどNHKしか観ていないので、もちろんEテレの売却論には大反対です。
ていうか、N国党が現れて以来、やたらと騒がれているNHKのスクランブル放送化自体にも大反対です。

別に今のNHKの会社の体制がそのままいいとは思っていません。ほぼ国営放送みたいなものなので、受信料を貰っている以上は、それなりにその運営の仕方に透明性が無ければいけないと思いますし、出来る限りの無駄な経費は削るべきだとは思います。
でも、だからといって、スクランブル放送化やEテレ売却の話は、間違いなく極端な話し過ぎるんじゃないでしょうか。

たぶん、スクランブル放送化やEテレ売却の論調に乗っかってネット等で主張する人って、そもそもNHKをあまり観ていない人たちだと思うんですよね。
自分たちには必要がないモノ。だからお金は払いたくない。
単純にそういう話だと思うんですよね。
でも、そうやって功利的な考え方だけでは、社会を考えることは難しいと思うんです。
今、NHKやEテレがあるってことは、それを必要とする人があるからあるわけで、得ていてそういうものが経済性の高いものとは限らないわけですからね。

ていうか、社会福祉的な感覚がなくなり、世の中が経済性の高いものだけに絞られていけば、それは想像以上に地獄ですよ。

太平洋戦争が終わって民主主義が輸入される前までの日本には、社会福祉的な感覚は皆無でした。それはまさに弱肉強食の世界で、都市にはゴミ溜めのような不衛生な貧民街がそこら中にありましたし、政治経済体制も声が大きい人の意見だけが通る支配的な世の中でした。

経済性が高くなくとも社会性があるものを隅に追いやり、功利的考え方だけで社会をデザインしてしまえば、それはかつてあった力がある者だけの世界に逆戻りをするだけなんですよね。

教育や福祉番組はテレビという弱者でも容易にアクセス出来る場所で放送されているからこそ価値があるんです。

「どうせ金にならないんだからそんなものはネットで観ればいい。電波はもっと金になることに使わせろ」というのは、ただ経済的な側面のみを考えているとしか思えず、かなり一方的な話です。

ていうか、教育番組なんてタブレットで観せればいいって言ってるけど、まずタブレットを支給されるのは現状一部の地域の小学校からで誰もがすぐにタブレットを持てるわけではありませんし、そもそも0才児や1才児がタブレットで長時間番組を観れるのか、考えてみれば、わかると思うんですよね……

わたし自身、子育てをするようにならなければ、Eテレがここまで大事なことだとは思いませんでした。同様に多くの障がいを持った人や老人や教養講座を欲している人にも、Eテレは大事な存在だと思います。

あなたが使わないから、それはいらないものではないんです。あなた以外にそれを必要としている人もいれば、あなた自身もいつかそれを必要とする日がくるかもしれないのですからね。