親が決めたレールに子どもを乗せることの暴力性

一族で「自分だけが慶應に入れない」少女の苦難

一族みんなが慶応幼稚舎からエスカレーターで慶応大学を出ている中で、慶応に入れなかった人がどれだけ苦渋を舐め、いかにしてアイデンティティを取り戻していったかという話ですね。
この話個人的にはよくわかります。
わたしの従兄弟も慶応やら青山やらに小学校から行っている人が多く、親は祖父母から相当わたし自身も幼稚舎を受験するよう迫られたことがあったようです。
ウチの親は、子どもは近所の子と遊ばせた方が幸せだという考え方だったので、結局お受験はせずに高校まで公立で過ごしましたが、成長過程において、有名私大にストレートで行っている従兄弟たちと、かたや公立で勉強しているわたしを含めた人間たちとの間には、経済的なもの以上に隔たりがあるのだということがよくわかりました。

まあ、有名私大の付属に行っているお坊ちゃんやお嬢さんって、基本的にその多くはいい人なんですよね。人としては。
ただ普通の何たるかの基準が違うということが肌感覚で分かっていないんです。
だから、勝ち組にいることや勝ち組に乗ることが当たり前だと思っているし、無邪気にそれが正しいことだと他人にも勧めて来るんですよね。
でも、勧められた「普通」の生活をしている人にとっては、それは屈辱であったり、重荷であったりするわけで、決して「そうですね」とは言えないんです。
そりゃそうですよ。そうしたら、自分の今の状態が何だから知らないけれど劣っているということを見せつけられるだけですからね。
他人の家庭でもそうなのですから、家庭内でコレはたまったもんじゃありません。

一族が同じ有名校に行くというのは、お金持ちにはよくあるはずですけれど、それがみんながうまくいけばいいのですが、そこから脱落すると辛いです。
この記事のように本人の意思とは無関係に、たとえそれが親がよかれと思ってやったことだとしても、慶応を受験させ続けるとかって、ハッキリ言って虐待以外の何ものでもないですよ。
まあ、受験のことだけじゃなく、親が幸せだと思うことと、子どもが幸せだと感じることは違います。つうか、違うのが当たり前なんです。
それにも関わらず価値観をまるでそれが正義かのように押し付け続ける。
それは、親子関係がおかしくなってもしょうがないですし、子どもによってはそれが引きこもり等の原因になることだってありうると思います。
子どもにとっては、親が与える環境しか最初は知らない訳で、それが期待通りに出来ないとそれは追い詰められます。
そして一たびそうした精神状態になってしまうと、そこから抜け出るには多大なエネルギーが必要となってしまうんですよね。

うまく早い時点で、親が押し付けているのは、親が行っていることに過ぎず、それは正義でも何でもなく、世の中にはもっと色々な価値観や感じ方があるのだというこを知る機会があれば、それだけ親の支配から抜け出せる可能性が高いのですが、その機会がなければ、下手をすればその子の人生そのものを狂わせてしまうことになる。
不幸なことは、そうした親のほとんどがなぜそうなるのかがわからず、ひたすらに自分の価値観だけが正義だと信じてやまずに、逆に子どもの方こそがおかしいのだと決めつけてしまっているんですよね。
それはその親自身が視野を大きく持たず、一つの価値観に縛られているからにほかならないのですが、そうした人はその事実は絶対に認めない。
認めてしまうと、自分の人生そのものを否定してしまうことになってしまいますからね。とても厄介な話です。

そうなると、いかに学校とか友達とか、子どもたちが違う価値観と出会うキッカケをいかに多く得られるのかが大事なんだと思いますが、これが早いうちから受験をして私立に行ってしまうと、似たような家庭や学力の子ばかりになってしまって、難しくなってしまう。
ようするに、いかに結局は多様性が大事なのかっていう話なんですけれど、世の中そのものが多様性を当たり前のように受け入れる形になれば、それだけ子どもたちも多様な価値観と触れあう可能性があり、自分は自分なのだということに気がつける可能性が広がるという話になるんですよね。
これまで決まりきった価値観の中でしか生きてこなかった人にとっては、多様性を受け入れるというのは抵抗感があるかもしれませんが、これからの子どもにとっては、子どもののときから多様性が当たり前となっていることで、救われることがたくさんあるのです。

大人になればなるほど、自分の人生を毀損したくないという想いから、どんどんと保守的になり、さまざま考え方や在り方を受けいることにどうしても二の足を踏んでしまう。
でも、子どもたちをそれに巻き込んでしまっては、それは子どもたちから自分で自分の人生を考える権利を奪ってしまいかねません。

世界は広い。色々な価値観がある。単純なことなんですけれど、それを当たり前のことをとして知る機会があるってことはとても大事なことなんですよね。