菅首相の「生活保護」発言にみる、政治家と国民との間にある致命的なズレ

「最終的には生活保護がある」発言で見えた菅総理の「上級思想」

菅総理の「最終的には生活保護がある」発言が様々なメディアやソーシャルネットワークで取り沙汰されていますね。

コロナ禍において生活が困窮している貧困層に対してさらなる給付金が必要なんじゃないかという議論の中での言葉なのですが、さすがにちょっとこの言い様はひどいです。

政府の財源にも限りがあり、さらなる給付金の交付が難しいという話はわかります。ならばそれを数字でもってキチンと説明すればいいものの、鼻から相手にもしないような態度でしかも出てきたのが「生活保護」では、社会保障制度の意味が本当に分かった上で政権を運営しているのかと問い質したくなってきますね。

「生活保護」というのは、そもそも自立して経済活動を成り立たせるのが困難であり、かつ親族等にその人を助ける人がいない人に適用される制度です。なので、受給を受けるための基準が厳しく、どこの役所もなんだかんだでなかなか審査を通してくれないことが方々で言われています。また、日本独特の社会意識の中で、生活保護を受けるということ自体を恥と感じる人が多く、生活保護を受給するべきレベルの生活困難であっても頑なに審査を受けようともしない人が多くいることも広く知られています。

その一方で今回言及された生活困窮者に対する給付金というのは、そもそも経済活動が出来る能力がありながらも、コロナ禍によってそれが難しくなっている人たちに対する政策です。つまり、こうした人たちが生活保護を受けなくてはいけなくなってしまうような立場に追い込まないためにどうすればいいかという話なんですよね。

それに対して「生活保護があるじゃないか」っていう返し言葉は、本末転倒で話をはぐらかしているというか、鼻から取り合うつもりがまったくないという気持ちが現れ出ています。

菅首相が就任した際に、世襲議員ではないこと、地方からの出身で苦学して今の地位にまで登り詰めたという経歴から、この人なら国民の気持ちがわかるのではないかという期待が方々で膨らみました。実際に国民に寄り添った政策をすると明言していましたしね。しかし蓋を開けてみれば、この人も結局はこれまでの人と何ら変わりなく、政治のパワーバランスが第一で、さほど国民には視線が向かっていないようです。携帯電話の料金さえ下げれば国民は黙らせることが出来ると思っていたら大間違いですね。

まあ、豊臣秀吉型の立身出世を体現しているような人は、そもそもが社会に対する理想よりも、自身の権力の方に執着心が向かってしまうのは世の常かもしれません。実際秀吉も偉人としては扱うべきでないほど、権力掌握後は最低最悪な独裁者でしたしね……。菅首相ももはや勝ち組だけが利すればいいという新自由主義的な思想がもはや隠せなくなってきましたね。

それにしても菅首相だけでなく、政治家と社会一般との感覚のズレはいい加減どうにかなりませんですかね。以前安倍前首相が「日本の平均的な共働き夫婦の月収 ご主人の月給が50万円 奥さんのパート収入が月25万円 ご夫婦で月75万円の収入があるわけですが」と発言したのには、度肝を抜かれましたが、このコロナ禍においても緊急事態宣言下で会食はしまくっていますし、汚職があっても幼稚なごまかしに終始してますし、麻生大臣は常に上から目線で人を喰ったような発言ばかりしてますし、ホントに色々とひどいです。

議員の人たちは何か勘違いをしているかもしれませんが、議員というのはあくまで「代」議士であって、ただみんなの声を代表しているに過ぎない人なんですよ。貴族でもなければ、先生でも上級国民でもなんでもなく、ただみんなの声を聞いて議論をするのが仕事の人なんです。色々と与えられている権利も高収入も庶民のために議論するために与えられているのであって、議員その人の自己実現や承認要求のためにあるわけではないのです。

そんなみんなの声を聞いて議論するべき人が、みんなの生活感覚から大きくズレているというのは、そもそも一体どういうことでしょうか?しかも何か非難されると開き直って偉ぶりさえもする。バッチをつける意味を本当に考えてほしいです。

経済は一流、政治は三流、とは少し前に外国からよく評されていた言葉です。しかし世界動向のうねりの中、対応を間違えた三流の政治のおかげで、いつの間にか経済やそれに付随する様々なものまで、二流三流と落ち始めています。民主主義の国である以上、三流の政治を生んでしまっているのは、わたしたちみんなの責任です。政治家が自分たちとその取り巻きの利益のためではなく、社会全体の利益のために動くよう、わたしたちはこれまで以上に目を光らせ、声を上げていく必要がありますね。

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