「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」

手塚治虫文化賞を受賞した高野文子さんの作品ですね。
一言で言えば、難解でいて、単純な話と言ったところでしょうか。捉えどころのない言葉ですが、正直、それほど長い作品でもないにも関わらず捉えどころのない作品であり、捉えどころのない作品だからこそ、妙に人の心に残る作品なのだと思います。

内容はロジェ・マルタン・デュ・ガールがノーベル文学賞を受賞した「チボー家の人々」を田舎の高校生の女の子を読んでいるという話です。
この説明の時点で、いわゆる起承転結的な何か物語が描かれているのではなく、ただ長い作品を読み終えるまでの田舎の女子高生の日常が淡々と描かれているだけです。

正直東京で「少年ジャンプ」で少年時代を過ごしたわたしにとっては、もしも若かりし頃に読んでいたら、さっぱりと理解出来ない作品だったと思います。
でも、すでに「チボー家の人々」を読破し、田舎育ちの奥さんと結婚して子育てをしている大人になっているからこそ、少しはこうした作品を感じることが出来るようになったのかなと読み終えてちょっと思ってしまいました。

この漫画を読んでまず不思議に思ったのは、漫画を読んでいるよりは、純文学の小説を読んでいるような気持にさせるところです。
おそらくこれが漫画ではなく、活字で描かれていたら、もっと自然な形で物語に入れただろうし、主人公に感情移入もして色々な想像を広げられる作品であったと思います。
でも、この作品はどこまでも小説っぽくありながらも、漫画であるということがこの作品がこの作品たるゆえんなんですよね。
いわゆる商業主義にのっとった漫画と比べてみると、この漫画は無駄だらけと言われてもしょうがないでしょうし、商業的な作品に読み慣れている人からしてみれば、まずこの本の読み方が分からないと思います。
どうしても理屈で読んでしまおうとしてしまいますからね。
でも、この作品は理解しようとするのではなく、感じる作品であり、そして作品から滲み出ている色彩とか匂いとか音とかを漫画を通して体験する話なんですよね。
映画でそうした作品に出会うことはたまにありますが、漫画でそうした感覚を追体験させるような作品に出会うことはほとんどありません。
そのあたりの独自性がこの漫画の存在を際立たせているのであり、漫画の可能性を感じさせてくれる漫画でもあるということなんだと思います。

商業漫画に読み慣れていると、どうしても商業漫画の作り方=漫画の作り方となってしまい、知らず知らずのうちに感覚が画一化されてしまっているんですよね。
「漫画ってこういうものでしょ」って。
その一方で、この作品はあえてそこにはハマらずに、あくまで自分自身の考え方や感じ方のみを頼りに、自分にしか出来ないアプローチの仕方で作られています。
しかもそれはおそらくはこの作者の生き方そのものが作品には投影されていて、そう考えるともはや芸術作品に近いのかなっていう風格すら感じさせるんですよね。
そうなると、もはやこの作品の場合は、とにかく描きたいものを描いたから、あとは読む人がどう読むかに委ねられていて、それを肯定的に捉えようと、否定的に捉えようと、作者自身がそうしたことに気にしていないんだぞというスタンスが見え隠れしてくるのです。
そして、普通ならそうしたアプローチは読む人に傲慢さを感じさせるのだが、この作品を読んでいてもそうした傲慢さは微塵も感じさせられない。
それどころか稚拙さも感じず、ただ純粋に思ったことを好きに描いただけという自分自身の気持ちへのひたむきさだけが感じられるんですよね。

正直ヘンな作品です。
でも、読んだ後にどんな話だったのかをおぼろげに何年経っても覚えているだろうなと思わせるところに、この作品の恐ろしさを感じます。
結果的に商業主義に寄らずに、運よく世に出ることが出来たことで、読む人の心ざわつかせる作品になっているのでしょうが、でもそれって漫画に限らず、そもそも作品作りの基本といえば、基本なんですよね。
何だか作品というものの在り方を改めて問いかけられているような気がしてきます。

この作者にしか描けないものを描き切っていることに羨ましさすら感じさせますね。

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