「正欲」 著 朝井リョウ

「正欲」 
著 朝井リョウ

なんとも言えない気持ちにさせられた小説でした。
読後感に一般的に求められるような都合の良いカタルシスがない反面で、色々と考えさせられる話であることは確かなので、非常に優れた小説なんだと思います。

それにしても、まずはこのテーマをあえて選び、書き切った作者に敬意を表したいですね。
「多様性」という言葉からもこぼれ落ちる性欲をテーマにしている時点で一般受けしないことはわかり切ってます。
それでもあえてこのテーマについて深く考え、明確な答えなど出ないことは最初からわかっているのに、考えること自体に意味があると言わんばかりのスタンスで筆を進めた作者の気概のようなものが伝わってきます。個人的には朝井さんの作品には、いつも現代社会に向き合う姿勢のようなものが感じられるので好きです。しかも現代社会を切り取るだけでなく、現代社会の中で誰もが見過ごしてしまっているような、誰のそばにも存在しうる暗部を描き出そうとするその作家としての心意気のようなものに強烈な個性を感じますね。

それは、本作でも相変わらずで、おそらく「多様性」という言葉が一人歩きしている中で、作者はその曖昧さに気持ちの悪さを感じ、その感覚を読者に訴えたかったのだと思います。
本作はいきなり小児への猥褻事件のニュースと「多様性」への疑問を口にした文章で始まり、読者を戸惑わせるところから始まります。
作者はそうやって自分にも読者にも簡単に答えの出ないような高いハードルを最初から掲示することで、いま私たちが生きているこの社会が誰にとっても居心地のいい場所ではないのだということを暴露するのです。
そして、とにかく様々な異なる立場の人間に語らせることで、「多様」とは何なのか、という定義の出来ない問題でありながら、社会の根幹に関わる問題に迫っていくのです。
物語の中で特異な性的嗜好を持つ人たとそうじゃない人たちの想いがそれぞれ語られます。
多数派に生きる大多数の人からしてみれば、おかしいのは特異な性的嗜好を持つ人間であって、多数派であることが正しいのだと無意識に思いがちです。
でも、話を読み進めていくうちに、多数派であることが常に正しいわけではなく、多くの人が実は常に何が正しいのかわからずに、多数派と思われる場所に身を置くことで安心感を得、そして想像も出来ないようなマイノリティを拒絶することで自分という人間の輪郭を作っているに過ぎないのだということに気づかされていくんですよね。

最終的に、冒頭で読んだ小児への猥褻事件が違った印象のものに見えること、そしてまともな多数派にいると思われていた人たちも特異な性的嗜好を持つ人たちと何も変わらない人間であること、そしてむしろ多数派の中にドップリとハマっていればいるほど、人間が生きる上で本当に大事なことが見えなくなってしまうんじゃないかということを思わせる、作者の物語の進め方は本当に見事です。
特にラスト近くの大也と八重子の言葉のぶつけ合いは、非常に読み応えがありました。
まさにこのテーマに関して、考えに考え抜かなければ出てこないセリフだったと思います。

ただ最後まで一気に読み切ったあとで、この作品というよりは、この作品が存在している現在の社会そのものに対して、限界のような感覚を感じたことも事実でした。
本作では、特異な性的嗜好を持つ人間として描かれている人たちとして、「水」に対して性的欲求を感じる人たちを描いています。
確かに今現在の社会の中で性的な対象が「水」である人は、とても特異です。ただ特異な性的指向にも、色々と種類があり、LGBTQのように時間の経過とともに、社会に認知される可能性があるものと、そうじゃないものがあります。

本作を批評するにあたっての、避けては通れないポイントは、作者がテーマの中心となる特異な性的指向を持つ人間の主体として、前者を選んでいる点です。
これはおそらく作者の力量不足ではなく、作者の配慮によってそうした作りになっているのだと思います。
具体的にいえば、「水」に性的欲求を抱く人々の視点で物語を描くことが出来ても、小児性愛者の視点で描くことが出来ないという点ですね。
唯一の小児性愛者でもある矢田部に感情移入を少しでもさせてしまう描き方には踏み込めなかったんですね。
作者としては、「多様性」の在り方に一石を投じたかったものの、そこまでやり切ることは、現代社会では無理だと思ったんだと思います。
まあ、でもそれはそうですよね。
「水」フェチは、自分が楽しむ限りにおいては他人に迷惑はかかりませんが、小児性愛者は被害者を生みますからね。
「多様性」を深く考えると、どうしても「自由とは何か?」という議論にぶち当たりますが、そこを突き詰めていくと、「他人の自由を侵害する自由は認められない」という、話がカントとかロールズとかといった哲学的な方向に向かわざるを得なくなってきますからね。

小説として大衆に向けて書くにはさすがに憚れると思ったのかもしれません。
このあたりのところは、作者としては相当悩んだと思われます。
それでも、色々と読後には考えさせられる、稀有な力作でした。
朝井さんの話を読むと、現代社会がまた違った視点で見えてくるので、次回作も楽しみです。