「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」
2009年/日本

四連作のうちの二番目の作品ですね。
シリーズ全体のテーマが人と人との繋がりであったり、その関係性であることは、前作である「序」でも明らかですが、続く本作の前半部では、孤独のうちに生きてきた主人公・シンジが徐々に他者と繋がっていくことで、人間らしさを回復していく様が描かれます。
学校でも、エヴァでの戦いにおいても、人と協調することでしか得られない喜びや楽しみが存在するのだということに気がついて行き、そのことによって自分が変わっていくことを実感していくのです。
そして、そんなシンジの変化は、周りも変えていきます。
エヴァでともに戦いながらも、それぞれに孤独を抱えているレイとアスカも、自分が孤独であることが当たり前だとは思わなくなり、他者のために何かをしてあげたいという気持ちを芽生えさせていくのです。

各々のここまでの気持ちの変化の描き方は絶妙です。
個々人の感情の在り方だけでなく、しかも加治さんをうまく使うことによって、話が社会というもう少し広い視点で語られているんですね。
そして、さらにここに、シンジと父親であるゲンドウとの関係の変化の兆しやレイの介入を描くことで、物語のさらなる好転が期待されます。
このままみんなが上手くいけばいいのに……、誰もが思わずそう思わさせられるのです。

でもエヴァがエヴァである限りそんな日常は長くは続かない。
暗転は突然やってきます。
具体的にはシンジはようやく繋がりが持てそうだったアスカを、あろうことか父の命令で失い、さらにレイをも失いかけるんですね。

ちなみにこれらの暗転のシーンで、「今日の日はさようなら」や「翼をください」などの小学校などでのお別れ会等の定番曲を挿入歌として選んでいるのは、子どもとして生きることの終了を暗示しているといえるでしょう。
これか第三作「Q」で描かれるシンジにとっての地獄の序曲になっているのですが、曲調が映像と相反している分、物悲しさをこれでもかというほど強調しています。

大人の都合の中で生かされざるを得ない子どもと、大人として振る舞いつつも、そこに欺瞞が見え隠れする大人たち。
そして急激に大人になることを求められる子どもは、精神的に追い詰められていくしかありません。
大人によって主体性を持てなくなった子どもがどうなるのか。
そしてそんな彼、彼女たちはどうやって生きていけばいいのか。
世界に希望を抱ける日常から、急に現実の刃を突きつけられる感じがして、この第二作である「破」は食い入るように見てしまう分、精神的にはキツいですね。
まあ、そのキツさがエヴァの醍醐味でもあるのですが。

「序」が物語の世界観を表すためのプロローグなのだとしたら、この「破」は「序」で走り出し、ようやく築けそうになった繋がりを一度破り捨てることを表すための章であるといえるでしょう。
だからこそ「破」が「破」である由縁なのでしょうが、やっぱり日常に希望を見出しかけたそのときだけに、この展開はえげつなく、そしてえげつないからこそ、観ている人の心に激しく訴えかけてくるものがありますね。

関連記事:
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」