中学受験激化。相次ぐ中高一貫校の「高校募集停止」に強く疑問を感じる。

都立中高一貫校「高校募集停止」の衝撃 受験も結局「カネ次第」なのか?

これは何げに根本的に格差を助長している話ですよね。
首都圏で中学受験が激化しているというのは、もう十数年前からよく聞く話です。コロナの影響で少し収まるかと思いきや、実際は変わらないどころか増えている。その理由は、首都圏にある名門私立中高一貫校が、相次いで高校での募集を停止したのに続き、都立中高一貫校でも高校での募集を停止し始めているところが増えたからだと言われています。

ようするに名門といわれる進学校の多くが、中学からしか入学することが出来なくなっていて、その状況に焦った親が我が子にまともなら人生を送らせようと、受験を促すようになっている。
加えて、子どもも子どもで、周りがみんな受験するのが当たり前になっていくのを目の当たりして、自分もやらなくてはいけないと切迫感を植え付られることによって自ら受験を望む子が増えているんですね。

そして、もともとあるこうした都心の中学受験の増加傾向に拍車がかかったのは、おそらく数年前に東京都が施行した高校無償化だと思います。
これにより、そもそも裕福な家庭しか進めなかった私立高校に力さえあれば誰でも入れるようになってしまった。

そして、高校受験において、資本による下駄を我が子に履かせられなくなったエリート層は、実力勝負がより濃くなった高校受験よりも、まだ下駄を履かせる余地が多い中学受験を選ぶようになり、そこに青田買いを望む中高一貫校のニーズが合致して、自然と現在のような流れになったのだと思います。

こういう話って大抵、資本を持っている人間の子弟であっても、努力して受験を突破したのだからしょうがない、イヤなら金持ちになって子どもを塾にでも入れろ、という論調の反駁があるのですが、安定した平和な社会を作ることを考えた上で、こうした反論は基本的に間違っていると思います。
確かに子供は勉強を頑張ったからその報酬を得るのは当然だと当事者がそう考えるのはわかりますが、誰でもがそもそも努力が出来る、努力の意味を教えてもらえる立場に育つわけではありません。
現状、都会の私立の進学校や有名大学の附属校を出ることが、経済的に安定した人生を得るためのパスポートになっていることを前提に考えれば、それらの多くの学校が高校受験を取りやめて、中学受験しかしないというは、親の懐具合で受験生を差別しているといっても過言ではないでしょう。
なぜなら、それはこの国のシステムが資本主義と民主主義を標榜しているのなら、どちらもできうる限りの機会均等の達成を前提としなければ、それはただの身分制度に則った貴族主義になってしまうからです。

なに言ってんだ、みんな、同じ試験を受けるわけだし、誰もが受験は出来るんだから、機会均等は達成されているだろう。立場上、この見えない線で引かれた貴族主義において利権を得ている側の人はおそらくそう反論するでしょう。
でも、その機会均等というのは、ペーパーと制度上のみの極めて表面的な機会均等に過ぎず、実質、裕福な家庭の子どもでなければなかなか学費が払えないという事実を持って、中学受験をする人、しない人が分かれる大きな理由となっているならば、やはり今の教育における平等は成り立ってはいないのです。

それが資本主義なんだからしょうがないだろ!それでもそう反論する人はいるでしょう。そうです。資本主義の側面にはそういう弱肉強食の一面があることは事実です。
でも、それは純粋な能力による自由競争の結果であるならまだしも、結果的にほとんど限られた階層だけでの競争に事実上なっているのだとすれば、そもそも名目上の社会制度と実態が合っているとは言い難いのです。

中学受験の激化と親の収入による階層化は間違いなく、ただでさえ広がりつつある経済格差をさらに広げ、私有財産のみならず、文化資本のあるなしの格差すらも次世代に受け継がせていくことになります。
それはもはや自由競争ではなく、自分たちだけは優位な立ち位置でいたいという歪んだ貴族主義であり、その格差が広がれば広がるほど、確実に国は腐敗化していきます。

共産主義みたいなことを言うな!全て平等が平等なんて幻想だ!この手の話をすると必ずそうした物言いで論点をズラす人がいますが、そもそもわたしはすべて平等にしろとは言っていません。
少なくとも、自由競争を標榜するのならば、出来うる限り機会均等を、特に教育における機械の均等は達成されるべきであり、親の財産とは関係なしに、子どもの能力や努力によってのみ、進学も決められるような仕組みにするべきだと思っているのです。

現状の裕福な子どもが事実上優位になる、中学受験の在り方にはハッキリ言って賛成出来ません。それは、間違いなく機会均等の喪失と格差の拡大をもたらすエンジンになるからです。
見せかけの実力主義に隠されて、さらりとエリートそうのそこここで、世襲が当たり前のように進めば、社会は間違いなく推進力を失い、そこから新しいものは生まれずただ力のある立ち位置にいる人間が自分たちの利権を守るだけの後進的な社会になるでしょう。
そのことは二世、三世の議員ばかりに増えた今の国会議員が何をしているのかを見れば、一目瞭然です。

新しい世の中を作り、これからの社会を切り開いていくのに必要なのは、多様な視点であり、そうした視点を持つ多様な人材を育て上げていくことです。そのためには、教育における機会均等は絶対に必須です。
独自性ばかりを主張する前に、それぞれの学校はまず教育とは、社会の安定のためになされるべきであることを認識するべきだと思います。それはたとえ私立であっても日本という国の社会に存在している以上は変わりません。中高一貫校であるならば、中学高校でそれぞろ同数を募集しなければいけない制度が必要でしょうし、また大学などの高等教育の学費の無償化なども、すみやかに行うべきだと思います。後者においては、国として施行するならば、憲法を改正する必要も出てきますが、ぜひとも早急に成し遂げてほしい事案かと思います。将来的な学費に備えて多くの子育て世代が貯金をせざるを得ない状況にありますが、高等教育の学費が無償化されれば、自然と子育て世代がお金を使うようになるので、経済が動き始めるし、そして何よりの少子化対策になることは間違いありませんからね。

かつて明治維新において、目立った活躍をした志士の多くが下級武士の出身でした。優位な場所で安穏としている人材だけでは、新しいアイデアや産業の芽は育だちません。あらゆる階層の中に、平等な機会均等を与えることで、はじめて多様性が達成され、格差が解消に向かい、社会が安定するのです。
教育は一部の社会階層がその優位性をさらに確固たるものにするための手段ではなく、また他人に対して優越感を感じるために得るものではありません。その人個人を幸せにするためのものでもありますが、それと同じくらいその人の属する社会を豊かにするべきものです。

教育は、人を出し抜くことや過度の金儲けをすることを目的に成し遂げられてはいけません。それぞれの教育機関には、そうした教育倫理をよく考え、自分たちの行動がいかに社会に影響を与えるのかをよく踏まえた上で、制度設計をしてもらいたいですね。