「連環宇宙」 著 ロバート・チャールズ・ウィルスン

「連環宇宙」 
著 ロバート・チャールズ・ウィルスン

スッキリしました。
「時間封鎖」シリーズ三部作の最後の話ですが、二部の「無限記憶」でやや消化不良であった部分が本作ではキッチリと解決されていて最後はSF小説の定番であるセンスオブワンダー的な描き方で大きなカタルシスを得ることも出来ました。
そして何より本作を読み進めていくうちに作者の意図というか、何を描きたくてこのシリーズを描いたのかというテーマ性が三作目にしてハッキリとわかったことがよかったです。
振り返ってみれば、一作目でも二作目でもこの人は一貫して同じことを言っていたんだと気づかされました。

本作は21世紀のサンドラとボーズが主人公になっている話と、前作から引き続くタークとアイザックが出てくる二つの話が交互に出てくることで構成されています。
二つの話を繋ぐのは、21世紀の話におけるオーリン・メイザーが記した不可解な物語。
この物語自体がタークたちの話であるという設定なんですね。
最初読み始めたとき、前作から引き続いて読んでいる読者の多くはこの構成には面食らい、感情の置き場をどこに持っていけばいいのが分からなくなります。
でも読み進めていくうちに読者は気づかされていきます。
オーリンが書いた物語と21世紀の舞台で語られる事実に違いがあることを。

具体的には、オーリンその人の人柄であったり、置かれている立場であるのですが、それがなぜ違っているのか?という興味を読者に抱かせながら物語そのものが加速度的に進んでいくんですね。
構成論的に二つの時制の異なる物語を交互に紡ぐというやり方は、一つのパターンとして確立されたものですが、ここにそれぞれの物語に事実の違いを持たせ、それを持って読者を惹きつけるというやり方は非常に独創的でうまいと思いました。
しかもその違いの「なぜ?」の答えに作者が語りたかったことが語られているので、それは最後まで読んでカタルシスを感じるなという方が無理ですよね。

ここからは、ネタバレに含まれますが、本作を読んだ上で、このシリーズで浮き彫りになる作者のテーマは「神」です。
全部読むと分かりますが、作者が一貫して表現しているのは神の存在に対して狂信的になっている人々への嫌悪感です。
一部ではダイアンと彼女と結婚したサイモンを通じて、スピン後の地球において宗教に救いを求める一派の崩壊を描き、二部では仮定体との接触を狂信的に求め、アイザックを生み育てた四期の科学者たちの集団の末路を描き、そして三部では地球に戻り仮定体によって救済されることを望むヴォックスという狂信者たちの国家の最後を描きました。
共通しているのは、皆仮定体を畏れ、仮定体によって救われることを願い、絶望的な最後に陥るという点です。
おそらくこれはキリスト教圏内に住む人々がテーマにする問題ですが、自由に生きようとすればするほど、西洋の人々の多くの知識人は神への信仰に対するしがらみを強く感じてしまうんですね。
神を信じるのはいい。でも、あまりに神がいることが前提であるという共通観念は社会の隅々に至っていて、倫理や道徳が宗教的に決められた枠組みにから出ることが出来ないという事実には、強い閉塞感を強く感じてしまうんです。
しかも神の存在を狂信的に信じる人たちの集団に入ると、それはもう信仰ではなく、簡単に全体主義のようになってしまい、恐ろしいものになってしまうということをよく知っている。
作者は、根底的にこうした宗教の在り方を嫌っていて、三部作を通じて徹底的に批判しているんですね。

作者のこうした想いは、仮定体に対するアプローチを見ても明らかだと思います。
物語を読み進める読者が最初に思う好奇心は、間違いなく「仮定体とは何か?」という疑問です。
それに対して、作中の多くの人物が仮定体を神のように崇めるがゆえに、間違った行動を犯していきます。

物語が進むにつれて、仮定体は、かつて存在していた文明が作り出した装置で、その文明が滅んだ後も意思を持たずに愚直に機械的に繰り返されているシステムに過ぎないのだということがわかっていきます。
つまり仮定体は作られたものであって「神なんかじゃない」ということがわかっていき、それを「神」と崇める人間の愚かしさが浮き彫りになっていくのです。

かつてニーチェが「神が死んだ」と言ったのは19世紀です。
産業革命が起こり、物質的に豊かになり、化学や物理の法則が加速度的に明らかになっていた時代です。
その中にあって、観念的な世界観の影は薄くなり、人間は次第に唯物的な感覚を身に着けていきました。
「神などいない」
どんなに神業的な技術であっても、そこには必ず理屈があり、それに恐れてはいけない。
この「時間封鎖」三部作のテーマは、産業革命以来人類が得たその感覚をもう一度思い出させようとしたものであるのかもしれません。

戦争や災害など、人は大きな困難に直面すると、どうしても神にすがってしまいます。
精神のバランスを保つために、神と向き合うことによって困難に立ち向かっていく気持ちを作っていくという意味では、宗教の存在は間違ったものではないと思います。
でも、宗教が人間を支配し、信仰が盲目的に目的化してしまった場合、末路は破滅しかありません。
それはISなどのイスラム原理主義を見てもそれは明らかですし、「時間封鎖」三部作においても、さきほども言いましたが、そうした匂いのする団体が絶えず出てきます。
本作で出てきたヴォックスという都市国家はその極めつけみたいな存在ですね。
最終的にヴォックスの滅亡と、アイザックが見た宇宙の真理を描くことで、作者は徹底的に「神などいない」し、「神を崇めすぎてはいけない」ということを言っていたんですね。

それにしても本作のラストで宇宙の真理として次元的な説明をしていました。
これは図らずも劉慈欣の「三体」と同じ発想ですね。
こちらの方が先に描かれていますけれど。
ただ「三体」の宇宙の真理が次元が次第に減っていくのに対し、こちらは次元が増えていていきます。
そういう違いを楽しむのも面白いですね。