「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」 著 瀧井一博

「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」 
著 瀧井一博

維新の三傑の一人、大久保利通のイメージがかなり変わりました。
大久保利通と言えば、どうしても西郷隆盛と比較されて、「怜悧」とか「冷たい」とかいうイメージが持たれがちです。
大抵、小説やドラマでも主人公になるのは常に西郷の方で、大久保は悪役にすらされてしまうことも多々あります。

でもこうして大久保が何を考え、何をしようとしていたのかを丹念に追っていくと、大久保利通という人間の重要さに気づかされます。
ていうか、大久保いなければ、維新は成し得ておらず、成し得たとしても新政府は早い段階で倒され、再び内戦となり、結果的に諸外国の植民地になっていたかもしれません。
それほど、この時期の大久保の存在というのは重要なんですよね。

個人的に読んでいて面白かったのは、大久保の行動が幕末のまだ薩摩にいる頃から常に首尾一貫している点。
西郷のように情に動くのではなく、また目先の合理的な判断で動くわけでもない。
条理、つまり自分が正しいと思う大きな目的のために、今しなければいけないことをしているんです。

そして大久保が目指していた正義とは、「公議・公論」をもって世の中を治めること。
つまり、国王とか、将軍とか、そういった権力者がトップダウンで何か重大なことを決めていくのではなく、国の中かから選りすぐられた、聡明な人々の意見を集合し、話し合いの末に物事を決めていくというのが正しい世の中の在り方だと思っていたんです。
ある意味、幕末の時点で、民主主義に近い発想をしていただけでなく、頑なにそれを目指していたというのは驚異的な話ですね。

確かに明治になって以降の大久保の動きを見ていると、彼の志向がよくわかります。
あくまで、彼は国を盤石にすること。
「殖産興業」と「富国強兵」を実現することで、外国から侵略されずに済むのだということを痛いくらいに分かっていたんです。

どうしても独裁者的なイメージが付きまとっているんですが、良く見るとそうでもないんですよね。
この本の冒頭にネルソン・マンデラの言葉を引用して作者が大久保を評しているのですが、大久保と言うのは、先頭に立ってみんなを引っ張って行くというよりも、羊飼いの様にみんなが行った後でそれを後ろから見守る、そういうやり方でリーダーシップをとるタイプだったんです。

確かに、大久保はそもそも「公議・公論」を大事にしているだけあって、薩摩や長州といった枠にとらわれず、広く声を聞きましたし、有用な人物だと思えば、どんどんと重要なポストを与えていきました。
結果的に大久保のこうした公明正大な態度が、薩摩を中心とした割を食った士族に恨まれることになるんですが、大久保がこうした哲学をもって新政府を運営していなければ、明治新政府は、幕府から権力が移っただけのものとなり、諸外国につけ入れられていたかもしれませんね。

とにかく「殖産興業」を成し遂げるために作った内務省がね、時を経て太平洋戦争時に軍部によって利用されたという印象が強いために、大久保の印象まで悪くなっていたんですが、内務省を悪用したのは、昭和の時代の政治家たちであって、大久保利通は何ら関係ないんです。
彼はあくまで殖産興業を速やかに行くために内務省を作ったわけですからね。

どうしてもね、征韓論のあたりの話ってゴチャゴチャしていて、何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってしまうし、この頃を題材にしたドラマを観ても、西郷隆盛にしても、渋沢栄一にしても、彼らの視点でしか描かれませんからね。
ただハッキリしているのは、大久保にしても、西郷にしても、それから江藤新平とかね、井上馨にしても、岩倉具視にしてもね、大きな方向の向きは同じだったんです。
とにかく日本を豊かにして、諸外国から狙われないようにすること。
でも、そのやり方であったり、スピード感であったりが違っていたんですよね。

ようするに、大久保はあくまで漸進主義を貫いていた。
とにかくラディカルに何でもしようとする江藤らの勢力を抑えていたんです。
それは、ラディカルに事を進めれば、それだけ反発が大きく、まだ脆弱だった新政府が倒れかねないことをわかっていたからです。
この大久保の選択は、正しいと思います。
実際、江藤ら留守政府がラディカルにやり過ぎて、不満の声が大きくなってきたので、それを逸らすために挑戦を征伐するという、征韓論の論理は酷いとしか言いようがないですからね。

どうしても、佐賀の反乱での江藤や西南戦争における西郷一派への厳しい態度ばかりがドラマなどの影響で印象づいてしまっているのですが、そもそも不平不満ばかりで、話を聞こうともしない士族をどこかでどうにかしない限り、文明開化は成し得なかったのは事実ですからね。
大きな目的のために、敢えて憎まれ役になったのでしょう。

実際、大久保は、戦争を好んでいたわけではなく、その後の台湾出兵には反対し、どうにか戦争を避けようと自ら北京に談判しに行っていますし、不平士族についても、東北の開墾事業を斡旋しようと動いていますからね。

最後に、知らなかった事実を二つ。
一つは、上野公園について。
わたしたちは、あそこに博物館や美術館、動物園が集まっているのをもはや当たり前ものとして受け入れていますが、あれは大久保利通のお陰だそうです。
元々とあそこには徳川家の菩提寺である寛永寺があったんですよね。
でも、上野戦争で彰義隊が立てこもって焼けてしまった。
跡地に、東大の医学部をあそこに作ろうという計画があったそうですが、大久保が断固として知が行き交う場所を作るのだと主張したそうです。
ようするに、文明開化をいくら説いたところで、庶民にはなかなかわからない。
そこで、視覚で、様々な知識が得られる場所を作る必要があると考えたんです。
西南戦争中でも内国勧業博覧会を開いたのは、とにかく西洋のものをそのまま受け入れる、もしくは拒絶するのではなく、日本の製品や物産のよさを良く知り、それを結びつけ、その上で外国の技術を必要なところで使えばいいと考えたんです。
人や知識をとにかく結びつけようとしていたんですね。

ていうか、これって今の日本にこそ必要な考え方のような気がします。
大久保利通のような政治家が今こそ現れてくれないかなと思いますね。

それともう一つ。
大久保利通の偉業に深く感心したところで、子どもの頃から青年期までわたしが三十年過ごした町に、大久保利通の別邸があることを初めて知りました。
ていうか、住んでいた家からわずか2,3分のところでしたよ。
現在、ひっそりとマンションの一角に祠があるそうですが、確かに覚えています。
何の祠なのかは当時調べようともしていなかったのですが、あれが大久保利通を祀った祠だったのかと、小さい頃、近くに大久保利通に見守られていたのだと、サブイボが立ちました。