「五島崩れ」 著 森禮子

「五島崩れ」 著 森禮子

いわゆる隠れキリシタンの話ですが、かなり衝撃的な作品でした。
隠れキリシタンといえば、どうしてもまず天草四郎とか島原の乱をイメージしてしまいますが、この作品で語られているのはその時代の話ではありません。
幕末から明治初期の話です。
すでに文明開花の兆しがあった時代にそもそも隠れキリシタンがいたとか、彼らに対して壮絶な迫害があったとかそういった話自体がほとんど知らなかったので、非常に勉強になりました。

さて、話はようするに島原の乱から七代経て、それでもなお五島に隠れていた隠れキリシタンが、明治初期において迫害されていく様子が、主人公ミツの視点とともに詳しく描かれているのですが、これがすさまじく壮絶です。
まあ、このころになると、キリシタンは差別はされていましたが、見逃されることが多かったんですよね。
大きく変わったのが、明治新政府が生まれたから。
ようするに、まだまだ国を治める力がない新政府が天皇の威光をもとに民を従わせようとし、それゆえに神道による統治を強硬したんです。
そしてそれに伴う不満を解消するべく、長崎や五島列島ではキリシタンへの取り締まりが急にきつくなったという話なんですが、これは酷い話ですね。
ちなみに神道による政治は、このあと太平洋戦争に日本を導くことになり、そして今も続いています。
あまり知られていませんが、自民党を中心として日本の国会議員の多くが神道政治連盟に加入していますからね。
まあ、宗教が政治にからむとロクなことにならないという分かりやすい例なんですが。

脱線しました。
まあ、話は隠れキリシタンたちの様子がひたすら描写されていくのですが、面白いと思ったのは、迫害する側だけでなく、もしかしてキリスト教もキリスト教で酷いんじゃないかと読んでて思えてくる点です。
だって、7代頑張って耐えたら救われるとか、そういった感覚で子孫代々キリシタンの集落に生まれたら、半ば強制的に信仰をせざるえない状況を作ってきたわけですからね。
これは、いわゆる今話題になっている「宗教2世」の話にも重なって来るのですが、何だかそれはそれでどうなんだろうと思ってしまいます。
本人が自分の意志でその教えを選んだのならいいと思うのですが。
子どもの頃から当たり前のようにお祈りとかをさせられてしまうとね……。

そして、こうした疑問を思わせることで、ただのキリシタン受難の話に終わっていないところが、この小説のすごいところなんですね。
つまり迫害をしている側が悪いのは当たり前です。
問題は、じゃあ、なぜ迫害をするのかという点です。
この作品では、ミツが結婚することになる慶馬というキャラクターを上手く使ってそこを描いていると思います。
そもそもそれほどキリシタンに対して差別意識がなかった慶馬。
彼はミツをキリシタンと知って結婚するのですが、キリシタンへの迫害が始まった時は、キリシタンを取り調べはするものの、情はかけていました。
ただミツが疑われ、ミツ自身も自分がキリシタンであることをやめてしまったことに後悔をし始めてから、慶馬は変わっていきます。

差別や憎しみは最初からある訳ではないんですよね。
周りの影響や自分自身の心の弱さが、人を差別するという心を生む。
世俗とキリシタンの境界線上に立つ慶太をうまく使うことで、こうしたテーマを実にうまく浮き彫りにさせているんですね。

いやあ、ひさしぶりに本物の文学を読みました。
古い作品ですが、こうした作品こそ後世に残っていってほしいです。