「大人は判ってくれない」
1960/フランス
ゴダールと並び立つヌーヴェルヴァーグの巨匠フランソワ・トリュフォーの初の長編映画です。ヌーヴェルヴァーグのキッカケであり、この映画が評価されたからこそ、ヌーヴェルヴァーグの潮流が生まれたんですね。
話としては、トリュフォー自身の経験が下地になっています。大人の都合で振り回される子ども。大人は決して子どもの話を聞こうとせずに、力で子どもを従わせることばかり。それでいて、すべては子どもの素行の問題とされ、結局は少年鑑別所に入れられてしまう少年。
ラストの疾走シーンはあまりにも有名で、映画史に残るシーンですね。
さて、この映画を語る上で、重要なのはなぜこの映画からヌーヴェルヴァーグが始まったのか、という点だと思います。
それは映画が低予算で技術的にも小回りが利く撮影が出来るようになったという点もありますが、ひとえにこの映画がトリュフォーという作家の個人的な想いから作られたという点が大事であり、その想いが最初から最後まで貫かれているという部分が大きな意味を持っていると思います。
それ以前の映画は、ハリウッド的なスタジオ主体の映画作りであったり、昔ながらの権威主義であったりと、個人のものというよりも、総体として映画作りがなされていました。なので、どうしても、その内容は皆が面白く思う商業主義であったり、皆がこれぞ芸術と崇めるような形式的なものであったりと、いくつかの枠組みの中に映画というものが押し込められていたのですが、それを個人の域にまで広げた、その第一歩の代表作がこの作品なんですよね。
不良少年は、一見世間一般からすれば落ちぶれた堕落者で、主題としては感情移入がしにくいものです。
それまでの物語の作法からすれば、こうした不良少年がいかに構成するのかという教条主義的なものに流れてしまいがちなのですが、元不良少年であったトリュフォーはそれ自体が欺瞞であることを良く知っています。
そして、彼は描くのです。なぜ不良少年が不良少年になってしまうのか、本当に不良少年の性根が悪いからこそ、彼は不良少年になってしまうのか。
物語は、主人公であるドワネルが普通の子どもであるのか、その普通の子どもがどんな環境で育ち、大人たちにどんな言葉を浴びせられたからこそ、道を踏み外しがちになってしまうのかを淡々と描いています。
その中で、少年の目から垣間見られる大人の社会。
問題は、少年ではなく、大人であり、そして大人を取り巻く社会環境にこそあるのだとわたしたちは気づかされます。
男と女の差別、貧富の違い、それらを許容する力づくの支配。
子どもは、その犠牲者にしか過ぎず、そしてその犠牲者だった子どもは、いずれ支配する側に多かれ少なかれ立ってしまうのですね。ドワネルの両親の姿は、ドワネルがこのまま抵抗せずに、馴らされていった場合の未来の姿でもあるのかもしれません。
ラストシーンで、逃げ続けるドワネルは海辺で立ち止まります。そしてカメラ目線でこちらを見ます。
トリュフォーは後年、これは観客にあなたたちはどうしますか?と投げかけている視線だと語っています。
映画が観客に人生を、そして社会を問いかける。
映画が本当の意味で力を持った瞬間ですね。