「零號琴」 著 飛浩隆

「零號琴」 
著 飛浩隆

現在の日本SF界のトップランナーである飛浩隆さんの長編ですね。
寡作ながらも本を出すたびに批評家すらも驚かせる飛さんの作品ですが、いやあ、今回も驚かされました。
飛さんの作品は、細かい理系用語が飛び交うわけでもなく、また現在社会の諸問題を露骨にテーマにしているわけでもなく、その代わりに圧倒的な想像力があるんですよね。
しかも本作は、その飛さんが飛さんたることを証明している「想像力」をテーマにしているのだから、SFファンとしてはたまりません。

何か飛さんの作品って、作品そのものの世界に没入していくという一般的な優れた小説作品とは違って、その大きすぎる想像力に圧倒されつつも、それに必死についていくうちに、色々と暗喩的な読後に考えさせられる宿題を与えられて、読み終わったあとに、何とも言えないような充実感というか、恍惚感を与えられるんですよね。
あれこれと作品について思索を巡らせてみても結局は飛さんの手のひらの中で遊ばされている感覚で、しかもそれでいてその感覚が面白いと思わせる。
稀有な才能によって書かれたものに違いないってすぐにわかる話なんですよね。

さて、ここからは本作の具体的な内容に触れていくので未読の方は本作を読んでから戻ってきていただけるとありがたいです。

本作を読み進めていくにあたって読者がすぐに気がつくのは、これまで日本のアニメや特撮で使われたタイトル名がところどころで使われているという点です。
一番わかりやすいのは、明らかに「プリキュア」を文字っている「フリギア」で、その他にも「ゴジラ」が「牛頭(ごず)」に、「アトム」が「亜童」という形で出ています。
なぜこのようなことを作者がしているのかは、作者自身が語った言葉を手掛かりに作者が何をテーマとして書いているのかに触れる、本編の解説に書いてありますが、確かにその通りだと思います。

つまり、零號琴とはかつて日本に落とされた二発の原爆の比喩であり、日本人は「アトム」「ゴジラ」と原爆を想起させるような話から、今の「プリキュア」時代に至るまで想像力を膨らませていった。
でもその想像の先にあったのは、そもそもなぜわたしたち日本人が想像をしなければいけなかったのかという疑問とともに立ち現れた起点の喪失というわけだったんですね。
美褥=日本、零號琴=原爆と考えれば、この小説そのものが確かに戦後のSFを始めとするサブカルチャー史に当てはまることがよく分かります。
作品の中に社会性がないようなフリをしながら、もはや呪いともいうべきテーマをストーリーの中に隠しているという、実はとんでもないことをやっているんですよね、飛さんは。

こんなこと、相当に技量のある人間が相当の時間をかけなければ出来ませんよ。

そして作品がそうした枠組みの中で語られているということを理解した上で、個人的に衝撃を受けるほどに驚かされたのは、パウル・フェアフーフェンという人物の描き方でした。
おそらくこの本を読んだ多くの人は、物語に圧倒されながらも、どこか釈然としなさ加減があったはずです。
それは、結局は大悪党であったパウルとその仲間であった三つ首の一人、クレオパトラ・ウーがほとんど彼らの思い通りにことを進めさせ、目的達成と同時に何ら罰せられることもなく、逃げ果せたからです。

つまり、「夏の扉」のように読者が読んでいて溜飲を下げるようなカタルシスは最後までなく、残されるのは、現実とはいつだって厳しいものだという事実だけなのです。
物語にエンターテインメント性しか期待しない人にとっては、これはとんでもない結末です。
彼らにとっては、パウルもクレオパトラも本来倒されなければいけない悪ですからね。
でも、この物語では、話のほぼすべてが二人の悪党の思い通りにすべてが彼らの思い通りになった。
それはなぜか?

個人的には、実はここを読者が考えることにこそ、用意された設定以上のテーマがあるのではないかと思いました。
パウルが物語の当初、どう描かれていたのかを思い出して下さい。
いきなり深遠なことを考えていそうな大富豪として現れ、殺された後も、絶対に生きている、何か思いもよらぬことを考えていると、多くの登場人物に言われ続けました。
読者は、パウルの本性に期待したはずです。
一体この人物は何をしたいのだろうかと。

しかし、最後の最後で美褥から逃げ出す前に彼の口から語られた彼の真の目的は、「宇宙を支配する」という、今やどんな悪役でも恥ずかしくて口にしないようなセリフでした。
普通なら、ここで皆、肩透かしを感じて「何じゃそりゃあ」と作者に起こりたくなるところです。
最後の最後まで来て出てきた答えがそれかと。

でも、この本のすごいところは、そういう気持ちにはさせず、むしろ「宇宙を支配する」という子供じみた発想がリアリティを持って聞こえていて、パウルに対する怒りやら気持ち悪さやらいろんな感情が一気に吹き出してくるような仕組みになっているんですよね。
そして、すべてを読み終えたあとで、なぜ絶対悪にしか見えないパウルに勝ち逃げをさせたのか、その意味が垣間見えてくる。

先ほど書いたように、そもそもこの本は原爆を起点として想像力によって広がった戦後のサブカルチャー史をなぞっています。
そしてその想像力が大きくなりすぎたことで、起点が忘れ去られ、膨らんだ想像力はもはや向かうところも知れずに漠然とただよっています。
もしも美褥が自らの告白によって滅びたように、今の日本も起点に立ち返ればどうなるか。
そうした文脈で、パウルというキャラクターが最後の最後でその本性を見せたことの意味を考えると、彼が一体何者で、作者が何を言いたかったのか読み解けてきます。

パウルが最後に告げた「宇宙を支配したい」という言葉、それは人間の最大級の欲望を意味しています。
確かに美褥は自らの告白によって自らの設定通りに滅びました。
でも、その告白の原動力になったのは、間違いなくパウルの欲望であり、こうして見てみると登場人物のほとんどもパウルの見えない糸によって動かされ、物語そのものがパウルの欲望によって支配されています。
起点を失った想像力は何をもたらすか。
それは、とてつもなく大きい人の欲望です。
そして欲望が文明を滅ぼすということをかつて美玉に住んでいた人々は、大がかりな装置と美褥びとという身をもって、告白および文明の崩壊という形で伝えたのです。

つまりこれは欲望に対する後世への警告であり、欲望とはそもそも無敵で、とどまるところがないから気を付けろということなのではないでしょうか。
想像力をさらに膨らませたいのなら、同時に欲望に対してコイツはとんでもなくやっかいだから気をつけろということを言いたかったのではないかと個人的には思います。

欲望のメタファーとなったパウルは、美褥から奪った暗号音楽を使って「行ってしまった人たち」を追います。
欲望は果てしなく続くということです。
そしてそんなパウルが「かがみのまじょ」に重なることにわたしたちは気づきます。
そうです。本物の「かがみのまじょ」はこんなところにいたんですね。
そして「かがみのまじょ」は誰の心の中にも存在していることにわたしたちは最後に気がつくのです。
想像力がわたしたちを作っているのかもしれない。
美褥びとがそうであったように、わたしたち自身ももしかしたらそうなのかもしれません。
ただ想像力は意外と脆く、一たび目的を見失ってしまうと、欲望の誘惑に勝てずにその身を欲望に委ねて破裂してしまいます。

あくまでわたし個人が考えるうがった見方かもしれません。
でもこのようにでも考えない限り、どうしてこの物語が単なるカタルシスを目指ない終わり方をしたのか、終わったはずの物語がまた始まる可能性を示唆しているのか説明がつかないんですよね。

飛さんは年齢的にこの作品の続編を書けるかわからないと言葉を濁しています。
いやいやいや、ここまで人の心をかき乱した責任はとってもらわないと困りますね!

ぜひこの先が見たいです。
「欲望」の塊であるパウルに対して、トロムボノクやシェリュバンがいかなる手立てをしていくのか、それこそ想像したら楽しみでしょうがありません。
菜綵が何者で、最初刺客亜童に殺されたのに生き返ったのか(最後に美褥びとと一緒に滅びなかったので、梦卑ではないはず)とか、パウルも死ななかったのは、ウーデルス生まれだからこそなのかとか、語られていないこともたくさんありますしね。