「ドラえもん のび太の小宇宙戦争2021」

「ドラえもん のび太の小宇宙戦争2021」

一年待たされた、ドラえもんです。
子どもと一緒に観に行きました。
今回の「のび太の小宇宙戦争」は、37年前に藤子先生が作ったもののリメイクですが、さすがに色あせていませんね。
脚本は、エウレカセブンの佐藤大さんですね。
内容的には、パピの姉という前のバージョンにはいなかったキャラクターが付け加えられていましたが、それ以外は概ね変わっていません。
この話は、スネ夫の描き方がいいんですよね。
だいたいドラえもんの映画は当たり前ですがのび太の成長がフューチャーされることが多いのですが、まれにあるんですよね、サブキャラの成長に焦点が当たる回が。
特に初期の藤子先生が書き下ろした話はそういった作品が多いです。
有名どころでは、「のび太の海底鬼岩城」でのしずかちゃんや、「のび太の大魔境」でのジャイアン、そして本作におけるスネ夫ですね。

もともとスネ夫は、実はコアメンバーの中で誰よりも現実的なキャラなんですよね。
普段は臆病なくせに、肝心なところ(特に映画)では、やたらと勇敢なのび太と違って、スネ夫の臆病は安定しています。
でもスネ夫の臆病さって、嫌な臆病さではなく誰でもが思い当る臆病さなんですよね。
彼はそれを露骨に口に出してしまっているだけの話なんです。
だから、彼が臆病さを口にすると、「ああ、わかる」となり、それにドラえもんの話の流れを考えてみたところで、コアメンバーの中で一人ぐらいちゃんと人間らしい臆病さを口にする人間がいることで、物語にリアリティが出てくるんですよね。
怖くて怖くてたまらない。逃げ出したくてたまらない。けれど、戦わなきゃいけない時は頑張らなくちゃいけない。
そうした彼のマイナスからプラスの変化によって、観ている側の人間は感情移入しやすい仕組みになっているんですよね。

ただ今回、久しぶりに「小宇宙戦争」の話を改めて観たところ、以前とは少し違った印象を持ちました。
それは、やっぱりロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにした後だからこそだと思います。
ピリカにおいて、ギルモア将軍が民衆を抑えている様は、ロシアのプーチン大統領そのままなんですよね。
おそらく、藤子先生が37年前に下敷きにしたのは、ジョージ・オーウェルの「1984」だと思います。
町中にギルモア将軍の肖像画があり、それが監視カメラの役割をしているってところなんて、「1984」のイメージそのままですものね。
力づくで黙らされ、抑圧される民衆の無力さがこうしてみるととてもリアルです。

そして、本作は映画だらこそ、ドラえもんがおり、彼とその仲間たちが世界を救ってくれます。
でも、現在の本当に存在する独裁者については、いくら民衆が反乱をしたところでどうにもならないのが現実です。
フランス革命くらい前の話になると、民衆の蜂起は確かに力を持っていました。
でも、近代兵器を持った軍隊には、民衆が蜂起したところで、どうにもならない。
それほどの圧倒的な差があるんです。
どんなに民衆が声を大にしても、香港もミャンマーも力で抑えられてしまいました。
北朝鮮は、もう七十年以上も独裁者に抑えつけられています。
今のロシアもそうです。
声を上げようとも、徹底的に抑えつけられ、下手すれば殺されてしまうのです。
だから、社会が変えられない。
ウクライナはそれが分かっているから、死に物狂いで国を守ろうとしているのです。

独裁者を倒すには、独裁者が持つ軍隊以上の力が必要です。
軍がクーデターを起こしても、同じ独裁者を生む可能性があり、外国が力によって助けてくれたとしても、その外国が見返りを求めないとは限りません。
ピリカには、ピリカ人に比べて巨人であるドラえもんたちがその役割を担ってくれました。
しかも彼らは善意だけでそれをやってくれるのです。

果たして、善意だけで巨大な力を動かして、圧政から救い出せてくれる者は存在するのか?
それは本当にアニメの中だけの話なのか?

かつてこの映画の旧作を観たときには抱かなかった感情が、今回はフツフツと湧いてきてしまいました。
それにしても、「ドラえもん」の見方までも変えてしまう戦争って、本当に恐ろしく、色々と考えさせられてしまいますね。