スカイ・クロラ
2008年公開/日本
森博嗣の原作シリーズを読まなければ、判りにくいという評判でありましたが、個人的にはそんなことはないと思いました。むしろゴチャゴチャした説明がなく、特別な設定ながらも、淡々とそこだけを切り取って、それが当たり前のように進んでいく感じに、引き込まれましたね。押井守監督の映画は、「アヴァロン」や「イノセンス」に代表されるように、どんどんと抽象的な方向に向かっていくことも多いのですが、この映画はかなり観やすいものを作ろうというシンプルさが前に出され、個人的には、これまで観た押井作品の中では、一番好きな映画でした。
物語は、戦争をあくまで求める人間たちの欲望を満たすために、企業間に戦闘機での戦争をショーとしている近未来を描いています。面白いのが、ある意味で戦争映画であるにもかかわらず、あくまで闘うことそのものを目的として描いていない点です。普通なら、何か大きな目的(たとえば、国取りとか誰かを救出するとか)が大きな線となってストーリーが紡がれるのですが、この作品には、意図的にこれがなく、そして意図的にどこか達観的に、冷めた視線で、戦争を描いており、それが強烈なテーマとなっています。
まあ、ハリウッド型の常に物語の事象を追うことを強いられる映画を見慣れている人には、物足りない映画であるのかもしれませんが、この映画では派手な戦闘シーンはあっても、あくまで、目的は何が映画の中で起こっているのかではなく、焦点は登場人物たちが喋る言葉の意味を通して、生きることとは何か?を問うているのです。
そしてこれらの原作者および映画製作者たちの意図を表現する上で、最も大事な役割をしているのが、キルドレという設定です。簡単に説明すると、大人にならない子供で、戦死することによってしか、死なないという人間です。しかも彼らは、常に過去の記憶に対して、曖昧で、ただぼんやりと同じことを繰り返しているという実感しかありません。
一見メチャクチャな設定に思うかもしれませんが、そんな彼らがショー化された戦争の航空機パイロットとしてのみ存在が許されるということによって、この設定が妙に現実的になっていき、そして主に戦争に対する目的よりも、そこで描かれるキルドレたちの日常を見ることによって、非常に多くのことを考えさせられます。
主人公の函南やその上司である草薙をはじめとするキルドレたちは、子供の風貌をしているくせに、やたらと大人ぶった行動を取り、そしてどこまでも達観的で、冷めています。それは、彼らの記憶が常に曖昧なままで、同じこと(戦闘)を繰り返すことでしか、生きることが出来ない彼らの刹那なのですが、それでいて、大人の女を抱いたり、妊娠したりするところに、これは夢ではないという現実感もあるのです。
そんなキルドレたちの日常を見て、彼らが何を考え、何を喋っているのかを見ているうちに、年をとるということとは、そして変化をすることとは何か、とわたしは考えさせられてしまいました。
たいていの場合、わたしたちは、年をとって大人になることとか、変化をして前に進むことに対して、臆病です。どうしたって、老いることに怖さと醜悪さしか感じていないし、社会や家族に対して、必要以上に責任を負わされることに重荷を感じてしまいます。そしてずっと若いままでいたいと願い、気楽に生きていたいと願っているののです。
でもそんな理想的な成長のない生活の行く末が、実は生き地獄でしかないことをこの映画は謳っています。キルドレたちは、永遠に若い。しかもやっていることも曖昧な記憶の中で、闘うことの繰り返しを強いられているだけで、そこには成長も、自己発見も何もなく、しかも戦死したとしても、また同じようにコピーされて甦り、また同じことを続けさせられ、周りには気づかないフリをされているだけなのです。
変わらないことは、一見楽かもしれない。でも変わらなくては、人生の意義を見出せない。「いつも通る道でも、違う気がする。それだけじゃいけないのか?」主人公の函南の最後のセルフですが、彼らは永遠に繰り返される中で、わずかに残った記憶の断片にある、ちょっとした違いに希望を見出すしかない。それに比べて、わたしたちはいかに恵まれているのか。いかに生きることの意味を考えていないのか。
この映画の宣伝文句は、永遠の愛を謳っているが、それはちょっと違うと思います。この映画のテーマは、永遠そのもので、生きることとは何か、変わることとは何かをキルドレたちの刹那的な存在を通して投げかけているのです。