「うしろめたさの人類学」
著 松村圭一郎
とても考えさせられる本でした。世界を良くするために具体的に何をすればを教えてくれるわけではないのですが、どう考えればいいのかを教えてくれます。
著者はエチオピアを研究する人類学の先生です。構築人類学というものを提唱しているのですが、いまここにある現象が誰かによって構築されたものであるのなら、それを構築し直すことで世の中がよくなるんじゃないかという考え方です。
経済、感情、関係、国家、市場、援助、公平
この本では各章ごとにわたしたちが当たり前のように使っている概念をエチオピアとの対比をおいてとてもわかりやすく問い直してみます。
普段深くは考えずに使っている言葉も、からんだ紐を解きほどいていくと、それが本当はどういうもので、いかに作られた概念に過ぎないのか、わたしたちの行動次第でいかに変えることが出来るものであるのかということがわかってきます。
そして当然のようにエチオピアよりも日本の方があらゆる面で進んでいると思い込んでいたわたしたちに、日本では失われてエチオピアにはあるものが何であるのかをこの本の著者は気づかせてくれます。
著者の言葉を借りれば、それは「うしろめたさ」。つまりは、その後ろめたさによって喚起されるありふれた良心です。
分かりやすい例を挙げると、エチオピアでは、物乞いが堂々としているそうです。
日本ではたくみに隠されて、恥ずかしい存在だとされている人たちが、「金をくれ」と当たり前のように手を出す。そして手を出された方も、ほとんどの場合、しょうがないなという顔をしながらも、数少ない自分のお金を分け与えるのが当然なこととなっている。
国家や市場だけではどうにもならない部分がこの社会には確かに存在し、誰もがそのことを認めて、それに対して救いの手を差し出す。立場の弱い人は絶対にいて、それに対して目を背けない。
「うしろめたさ」は言葉の意味としては悪い印象を持つかもしれないけれど、わたしたちは「うしろめたさ」を感じるからこそ、弱者の存在を認めることが出来る。そして、認めることが出来て、初めて「じゃあ、どうしたら?」と次の行動に移せる。
この本を読んだ後に、大学生のときにイギリスに旅行に行った時のことを思い出しました。
朝ひとりで散歩していると、車いすの中年の男性が近づいてきて、さも当たり前のことと言わんばかりに「押してくれ」と言ってきたのです。
正直、日本でそんな経験などしたことがなかったので驚きました。結局、それが当然みたいな態度に気圧されて彼が目的地に着くまでの少しの間車いすを押したのですが、モヤモヤとしていました。
でも、たぶんモヤモヤとしてしまう自分のほうが実はおかしいんですよね。
社会に弱者は必ずいる。弱者がそれに気づいてもらうために声をあげる。それは極めて自然な行為であり、それを見えなくしている社会、見ようとしていない自分のほうがおかしいんです。
格差が広がり、何かと自己責任論をふりかざす人が増えている中で、こうしたことに気づかせてくれる本を書いてくれる人もいるんだということにホッとしました。
ぜひ多くの人に読んでもらいたい本です。
わたしたちの周りに当り前のように存在している社会の見え方がきっと変わると思います。