「わかりやすさの罪」
著 武田砂鉄
その通りです。概ねこの著者の言っていることに同意が出来るなと思いました。確かに世の中何でもかんでもわかりやすくわかりやすくしすぎです。
いや、個人的にはわかりやすくすること自体は悪いことではないと思うのですが、何でもかんでもわかりやすくすることがあたかも正しいように扱われるのはちょっと違うと思います。
映画や小説を見ても、みんなわかりやすいカタルシスばかりを求めているのですけれども、映画や小説で大事なのは、見終わった後で自分なりに考えてみることなんですよね。もちろん話の筋道や内容が全然わからないというのは問題があるとは思いますが、テーマについてわかりやすく「愛って素晴らしい」とか「家族って素敵」などという結局わかりやすい結論しか用意されていないものが多いんですよね。
本来ならば、人間生きていて矛盾や解決できないものや複雑でグチャグチャなものがあって、そのグチャグチャ模様を見せることによって、観る側どう感じるのかが大事なんです。でも、今は観る側が横着していて、考えるのが面倒だったり、矛盾に目を向けたくなかったり、そもそも感じることが出来なかったりと、フレーム化されたわかりやすいものばかりが重宝されて、それが売れるから正しいみたいな、おかしなスパイラルに陥っているような気がします。わからない自分が悪いのではなく、あくまでわからないモノを作るお前が悪いという姿勢が当たり前となってきてしまっているんですね。
そして、それがまだ小説や映画の話だけならまだしも、この本でも言っているように政治家などの権力のある人間がそうした求められるわかりやすさを逆手にとって、自分のやりたいように物事を強引に進めようとしているのですから大問題です。
愛知トリエンナーレの話で、名古屋市長の河村たかし氏や大阪府の松井知事の名前が本では挙げられていましたが、まさにその通りです。わかりやすく、過激で、それでいて人を刺激するような言葉やパフォーマンスをすることで、自分の主張がさもみんなの意見を代表しているかのような形で押し出してくる。
彼らだけじゃないですよね。アメリカのトランプ大統領に代表されるように、日本だけじゃなく最近の政治家はそんな人ばかりが台頭しています。
その結果が社会の分断を招き、多様性とは真逆の差別の助長を促しているんです。
確かに何がわかりやすいものがよくて、なにが分かりにくい方がいいという境界線は難しいです。
わたし個人としては、何でもかんでもわかりやすいモノがダメで、わかりにくいものこそがいいとは思いません。
本書では池上彰さんがわかりやすいものを提供している人の例として挙げられていますが、この人はこの人でそういう役割の人であるからそれはそれでいいと思います。
複雑な社会問題を紐解いて説明してくれる人は必要だと思うし、そもそも誰も彼もがわかりにくさを深く考えられるわけでもなく、こと政治や経済の話などついては池上さんが自分の意見を言うのではなく、あくまでニュートラルであるからこそ、安心して情報を精査出来るという部分もあります。
また実際の仕事などにおいても、理解度の速い人と遅い人がいて、理解がなかなかできない人にいかにわかりやすく説明できるように噛み砕くか、または子育てなどにおいてもいかに子どもに分かりやすく伝えるか、などとわかりやすさがどうしても必要とされる場面は多々あります。
問題は、本当にすべてがわかりやすくなくっちゃいけないという風潮なんですよね。明らかに。
そして皆が皆考えなくなってきていること。
社会の複雑さや目の前の現実に追われて、だからこそわかりやすさに安易に手を出さざるを得なくなってきていること。
わかりやすさに依存することも問題ですが、そもそもなぜわたしたちがわかりやすさをそこまで求めるようになってしまったのか、その点をよく考えて見るべきなのかもしれませんね。もちろんなかなか答えの出ないものですし、分かりにくいものだと思いますが、それでいいんです。そもそも世界はわかりにくいものであるし、わかりにくいものだからこそ、考える価値があって面白いんですからね。