少年ジャンプの法則から「鬼滅の刃」が大ヒットした理由を読み解く

いやあ、「鬼滅の刃」の人気が留まるところを知りませんね。
わたしの職場の偉い人も仕事中にいい年をして「鬼滅の刃」の話ばかりをして、スマホを眺めてどのフィギュアを買おうかと悩んでいます(仕事をしろという話なのですが)。
そんなおじさんたちをも巻き込んでいる「鬼滅」人気ですが、なぜここまで日本中を巻き込んだ人気になったのでしょう?
個人的には、「鬼滅の刃」の原作漫画が連載していた少年ジャンプにあるように思います。

わたしが「鬼滅の刃」をアニメで観て最初に抱いたことは、確かに面白いけれど、典型的な「少年ジャンプ」由来の作品だな、というものです。
さすがに大人になった今はジャンプを買って読むという習慣はすでにありませんが、二十代半ばくらいまで散々読んでいたわたしとしては、これはジャンプ漫画の面白さを踏襲してさらに進化を加えたものなんじゃないかと。
では、「少年ジャンプ」の漫画とはどういう漫画なのか?という話になりますが、一般的に少年ジャンプを語る哲学として語られるのが「努力・友情・勝利」です。
まあ、ジャンプが公式に言っているというわけではなく、80~90年代の興隆期にかけて自然発生的に出てきた言葉ですね。
たしかに、この頃の漫画はこの「努力・友情・勝利」の方式にうまく当てはまったものが多いし、実際それらの言葉が生まれてからは読者もそれを期待して読んでいる部分もあったので、どんどんとこの傾向が強くなったのではないかと思います。なにしろ、それで売れていましたからね。
ただわたし個人としては、この「努力・友情・勝利」もそうなのですが、少年ジャンプにはもう一つ大きなジャンプらしいパターンがあると思っています。
それは「仲間探しの法則」です。主人公が意図的でないにしても結果的に仲間を探し、そして仲間になりそうな人たちと反目し合ったり、友情を温めていったりすることで仲間を増やしていく、つまりはその仲間集めにフォーカスすることに軸を置いて作品を物語っていくというやり方です。
例として過去のジャンプ作品を思い起こしてみましょう。

「キン肉マン」最初はコメディ路線だったものの、格闘漫画になるにつれて倒していった敵の超人が仲間になっていくという黄金パターン。
「ドラゴンボール」ボールを集めている間に仲間が集まっていく。その後もピッコロやベジータといったかつての敵が距離を置きながらも仲間になっていく。
「聖闘士星矢」奪われた黄金聖衣を追った青銅聖衣の4人と当初は反目していた一輝の五人が何だかんだとパーティになっていく。
「スラムダンク」主人公の桜木花道とライバル流川楓の対立を軸に、個性的な仲間が集まってチームが出来上がっていく。
「ワンピース」これは作者の尾田栄一郎氏が「仲間集めを描きたかった」と過去に言っているだけあり、一人一人の仲間集めのエピソードが詳細に語られている。

一時代を築いた漫画のほとんどが見事なまでに物語の「仲間集め」を当初の軸に置いていますね。ほかにも「魁!男塾」とか「NARUTO」とか「るろうに剣心」とか思い起こせば色々とあります。もちろん、その例に漏れる作品もありますし、ほかの雑誌の漫画にもこうした「仲間集め」を軸に置いたものがありますが、看板作品のことごとくがそうであるのはジャンプならではです。
そしてポイントはただ仲間が集まればいいというわけではないこと。必ず仲間のそれぞれには一癖も二癖もあって、最初は反目し合ったり、騙し合ったりとか、単純に仲が悪かったりするところから始まるです。そして、共通の敵を倒していくうちに仲間になる、もしくは敵同士として拳を交えることで分かり合ういうパターンを繰り返していくのです。
「鬼滅の刃」もこうしたジャンプの先輩作品のパターンを踏襲していることは明らかです。炭治郎が鬼殺隊に入隊をすることをキッカケに共に鬼を倒す仲間たちと心を通じ合わせていきます。もちろん「鬼滅の刃」としての独特設定の面白さや感情を刺激する台詞や物語も重要ですが、基本的には一つの長い作品として仕上がっていく過程において、この作品がこのジャンプ伝統の「仲間集め」の法則に乗っ取っているといっていいでしょう。

ではなぜ少年ジャンプがこの「仲間集めの法則」に執着するのか。それは、そのパターンが売れるからにほかなりませんが、売れるということは、この「仲間集め」の法則には人を惹きつける何かがあるということになります。
ではなぜ「仲間集め」は観ている人を惹きつけるのか。それは人間がそもそも社会性のある生き物で、人と協働して何かをすることで社会を築いているからにほかならないからです。なんだかんだ言っても、人は一人では生きられず、誰かと話をしたり、何かをしたりして、初めて自分という人間が何者であるのかがわかり、人と関わることで生きている実感を得ていることが多いんですよね。コロナ禍の中で、人と会えないことがこれほどつらいことなのかと身をつまされる想いをした人も多かったと思います。
そして、人は物すごく楽しそうな集団とか、自分が生きることが出来る集団とか、とにかく魅力的な集団に惹かれます。そこに入って行きたいという想いもありますし、そうした魅力的な集団が世の中のためになっていることが多いということがわかっているからです。

でも、ただそれだけでは、漫画やアニメで描かれた仲間集めになぜ人が共感し、人気が集まるのかという説明なりません。
そこで考えられるのは、ほとんどの人は魅力的な集団の仲間になりたいと思っている、でも現実ではそうした集団に自分は属していないんじゃないかという可能性です。
確かに学校でも職場でも、自分が活き活きと輝ける集団に身を置きたいとたいていの人は考えます。でも、ほとんどの場合そこにあるのは、ただ一緒にいるだけの空虚な集団であったり、上下関係が厳しいだけの集団だったり、楽しげなことをしているフリをしている集団であったります。格差社会が広がる中ではそうした傾向が特に強くなっているのかもしれません。お互いに切磋琢磨し合い、助け合い、そこに不条理な上下関係などがない集団の一員になりたいと思いながらも、みんな、そんなものはなかなかないとどこか冷めており、孤独を感じている人が多いんじゃないでしょうか。そして、コロナがその気持ちに拍車をかけた可能性があります。

そうした人から見て、ジャンプが提唱する「仲間集め」はとても魅力的に見えます。観ているだけで少なくともその時間は自分がその一員になれたかのような気持ちになれますし、自分の心の中で欠けているものを埋めてくれた気にもなります。そうなってくると、そこに出て来るキャラや彼らの言動がどんどんと魅力的に見えてくるんですよね。そうなってくると、もう作品の虜になるのは時間の問題です。仲間という存在に対する現代人の強い憧憬が「鬼滅の刃」を大ヒットさせる一つの推進力になっているといっても過言ではないのではないでしょうか。

そして、連載から数年経っていることを考えると、現在のブームは、少年ジャンプを元から読んでいた人というよりも、普段はジャンプを読んでいなくて、アニメで知ったという人が支えているような気がします。普段ジャンプを読んでいないと、ジャンプ漫画が「仲間集め」を一つのパターンとして繰り返してきたことを知りませんし、だからこそ「鬼滅の刃」に猛烈な新鮮さを感じているのかもしれませんね。

あとこれは余談ですが、連載がすでに終わっていることと、最後の単行本がまだ出ていないことがブームを加速化させている別の理由であるような気がします。これは狙ったわけではなく、結果的にそうなったのでしょうが、連載が終わっているからこそ、ダラダラとエンドレスに付き合わなくてはいけないものではないという割り切りがつくし、最終巻が出ていないからこそ、最後がどうなるのか気になって仕方がないという想いがブームを持続させているのかな、と思います。

まあ、そう考えると、12月に最終巻が出て、みんながこぞってそれを読んだとたんに、若干ブームが下火になる可能性がありますが、ブームはいつか終わりが来ますからね。それでも、映画の続編はこれからも作られていくと思うので、日本のアニメ産業をしばらく引っ張ってくれそうですね。

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