「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」

新劇場版の第一作ですね。
序と銘打ってあるように碇シンジが登場するところから始まり、ヤシマ作戦の終わりまでが描かれていますが、概ねここまではテレビ版とほぼ同じ流れですね。
テレビ版も最初の頃はそこまで時間に追われずに作られているのがわかるので完成度がそもそも高く、新劇場版になってもそこまで変える必要がなかったということでしょう。
久しぶりに今回序を観直してみたのですが、自分が少し歳をとったからなのか、この話は碇シンジの話というよりも、実は碇ゲンドウの話であるかのような気がしてしまいました。
実際この物語の最初において主体性があり、物事のすべてを決めているのは碇ゲンドウであって、シンジはただ振り回されて、追い詰められているだけなんですよね。
基本的に使徒の存在も含めて「なぜ?」が多いこの作品において、一番の「なぜ?」が「なぜ碇ゲンドウはここまで息子であるシンジに対して冷淡なのか?」であり、そのいわば家父長制ともいえる社会の仕組みのベールによって誤魔化された父親の幼児性を探っていくことが大きなテーマになっているのだと思います。
綾波レイはその父親の幼児性を解く鍵であり、一方で葛城ミサトはシンジとゲンドウの間に立つ媒介的な存在です。

そして物語を動かしているのがシンジと思いきや、実はミサトさんであるというのが面白いところです。
ポイントはミサトさんもシンジと同じく父親に対して葛藤があった人間であり、かつ今はその葛藤と折り合いをつけて、使徒と戦っているというところ。
つまり、ミサトさんにとってシンジはかつての自分と同じであり、いわば鏡のような存在であるんですよね。
だからこそ、ミサトさんにはシンジの気持ちがゲンドウよりもずっと理解出来るし、自分と同じように世界と折り合いをつけてほしいとも思っているし、一方でそうやって自分がシンジをいざなっていくことに欺瞞や後ろめたさを感じているんですよね。
そしてシンジもまたそんな大人であるミサトさんの迷いがわかっているし、父親に期待されたいと願いながらも、父親が変わることがないという現実が分かっている。
分かっているからこそ、自分の居場所が見つけられなくなり、自分の存在までもが認められなくなってしまっているんですよね。
この話は、充分親から愛情を持って育てられなかった子どもが、それでも年齢とともに大人になることを強いられてしまうことで感じる戸惑いと絶望を描いています。
使徒とはもしかしたら、そうした子どもたちの想いが具現化した姿であるのかもしれませんね。

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