「男も女もデリヘルを必要としていた」被災地で性風俗取材を続けたライターの確信
東日本大震災から10年が経ったあとも被災地における性風俗取材を続けていたライターの記事です。
正直「性」の話は震災関連の話の中でどうしてもタブーになったしまうんですよね。
実際、取材をしていた人から話を聞くと、避難所などでは性被害の話なども多数あったようなのですが、さすがに世間が被災地を救わなきゃという空気になっている中で、そんな話を大々的に伝えるわけにもいかず、埋もれた話になってしまうそうです。
当時東京などにも東北の若い女性が仕方なくやってきて性風俗で働くことも多かったようてすが、そうした話も当然表には全然出てきませんしね。
問題は追い詰められた女性の多くにとって稼ぐ手段が性風俗ぐらいしかなく、またそこにつけこんでそれを斡旋したり、強要したりする輩が多くいるという社会構造です。
そしてもちろんそれはそうした場や状況を作り出している人間ばかりのせいだけではなく、間違いなくそうしたものを欲する側にも問題はあります。
少し前にお笑い芸人のナインティナインの岡村さんが、コロナ窩において、「我慢すれば、生活に困った可愛い子が風俗に現れるから頑張れ」というニュアンスの言葉でリスナーの男性を励ましたことが問題となりましたが、こうした発言が安易に出てしまうという社会意識そのものがおかしいんですよね。
さて、前置きが、長くなりましたが、この震災後の性風俗を長年に渡って取材した記事は確かに貴重なものだとは思います。
なぜならそれは多くの人が見過ごしている、あるいは見たがらないものを敢えて見ようとしたからです。
その点だけみれば、このライターの仕事は大事なものであり、これからを考える上で役に立つ資料になると思います。
実際にわたしたちはこうした話を「恐らくそうであろう」と勝手に何となく想像することは出来ますが、実際にリアルな声として聞く機会はほとんどありません。
そうなってくると、当然ながら想像は想像でしかなくなり、そこにリアルがあること自体が認識すらされなくなってしまいます。
そうした中で、実際に取材して聞いたという話は、強い力を持つので、わたしたちの意識をまた考えさせる方向に持っていってくれるんですよね。
考えてみてください。利用する客も風俗嬢も被災者だという特異な状況なんて、当事者じゃない人たちは、逆立ちしてもちゃんと「わかる」なんてことは出来ないんです。
でも、それを聞いた話が伝われば、わたしたちは少なくてもそれを現実のものとして知ることが出来る。
そして知ることが出来れば、考えることも出来るのです。
周りくどいのですが何を言いたいのかというと、ジャーナリズムとは何も世間の気を引く派手なスクープだけを追いかけるだけのことを指すのではなく、むしろこうした社会の暗部を時間をかけて追いかけることにこそ、意味があるのだということです。
そういった意味でこうしたライターさんたちがやっている仕事というのは、社会にとって非常にありがたい役割を担っていると思うのです。
だから、大きな意味では、このライターさんがしている仕事も敬意を評したいと思う部分はありました。
でもその一方で、この記事を読んでいるうちに、どうしても引っかかってしまうところが出てきてしまったんですよね。
それは記事のタイトルにも使われているところなんですが、
“大切な人を喪った男性が癒やしを求めて風俗を利用していた。風俗が男性のセーフティネットになっていたんです。一方の女性側は、家を流されたり、震災の影響で夫の稼ぎが少なくなったりして、生活のために風俗で働いていた。取材をしてすぐに、女性も男性も風俗によって救われた面があったと気づかされました。男性は自分の心を保つために、女性たちは生活を再建するために、風俗に頼るしかなかった。”
と、この箇所ですね。
風俗に行くという行為の是非は置いておいて、被災した男性が癒しを求めて風俗に行っていたという気持ちは、わたしもわからないではないです。
でもそうした男性と風俗で働かざるをえなかった女性を同列に並べて「女性も男性も風俗に救われた」とまとめるのは、いくらなんでも乱暴ではないでしょうか。
確かに稼がなくてはいけない女性にとって性風俗で働くことで金銭的に救われたという面はあるでしょう。
でもそのほとんどの女性にとっては、性風俗で働くこと自体は本望ではなかったはずです。
一方で男性は確かに被災をして大変な目に遭ったと思いますが、性風俗に行くことそのものは自らの望むところです。
つまり生きるために嫌でも働かざるを得ないということと、現実から逃げるために癒しのためにきていることは、普通に考えれば、そのそれぞれの感じ方においてまったく真逆なはずで、それを一括りにしてしまうというのは、男性目線の身勝手さではないかと思うのです。
多くの男性は男性だけのコミュニティの中では、性風俗に行ったことを大っぴらに話せます。
でも多くの女性は性風俗で働いたことをほとんど誰にも言えないばかりか、後になってもそうした自分を責め続けるだろうし、精神的にも苛まれ続けます。
これは決して同列に扱ってはいけない問題なんですよね。
もちろん女性を差別する意図でこうしたことを書いているわけではないということはわかりますが、結果的に熱心に取材している人がこうした関係を同列に扱ってしまうことで、それを見た人が都合よく勘違いを起こしかねない点に問題があるんです。
岡村さんの発言に違和感を覚えなかった人、すなわち普段から性風俗に行っているか、性風俗の存在を肯定している人は、おそらくこのライターの記事の「男性も女性も性風俗を必要としていた」という発言に大きく頷くでしょう。
それはそのはずです。だって、微かに感じていた風俗嬢に対する後ろめたさがこの言葉によって緩和され、それどころか自己肯定感を得られるわけですから。
そうなってくると、この人のこの記事そのものが性風俗を全面的肯定を後押ししてしまうんです。
書いた本人の意図がただ現実をそのままに描写しただけだとしても、それは自分を肯定したい気持ちが強い人にとってはちがったものに見えてしまうんです。
そして彼らは自己肯定を得られた満足を隠しながらそれとらしく言うでしょう。
震災という極限の状況だったからしょうがないと。
でも、震災という極限の状態だったからといってすべてが肯定されてはいけません。
それではそもそもそこにあったはずの社会問題が隠されてしまうからです。
この記事のライターさんの仕事に対するスタンスや熱意は感じます。
だからこそ、男性からの目線だけで話をまとめてほしくなかったです。
もう一歩も二歩も踏み込んで、自らの性的属性に捉われることなく、女性の本音を聞き出さしてほしかったですね。
本当にそこが残念でなりませんでした。
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