東京オリンピック 開催/中止を叫ぶ前に

二宮清純氏が五輪組織委に代わっておカネの問題を説明 加藤浩次「これで分かった」

東京オリンピックを中止にした場合にどれだけの損失が出るのか、具体的な金額がようやく出てきました。
これを見ると、もはややってもやらなくても損切りになることは間違いないようですが、一部有観客でやった場合と中止をした場合とで3兆円ほどの差があるということです。
さらにここにIOCからの賠償金が加われば、この差はより広がることになります。
まあ、だからと言って、やった方が良いと短絡的に言っているわけではありません。
それだけの金額的な損失と感染拡大によって失われるかもしれない命を比べて、それぞれがそれぞれの立場に固執して相手を黙らせることだけを目的にするのではなく、開かれた建設的な議論をするべきではないかと思うのです。
命とお金は替えられない。
それはそうです。
ただお金がなければ、生活することは出来ず、困窮の末に自殺者がまた増えるかもしれないというのも事実です。
しかも3兆円もの損失はそのまま国の借金となり、それを払うのは今中止を叫んでいる人たちの大半ではなく、これからの若い世代です。
中止という意見を言うこと自体は何も問題ないと思いますし、そういう意見ももっともだと思います。
そもそも当たり前のようにやることを前提にコロナ対策をしている政府のやり方にも多いに問題はありますしね。
ただ中止というからには、その損失に対して、漠然と未来に投げるのではなく、何をどうしてその穴埋めをするのかをちゃんと議論するべきだと思うのです。
非常事態だからしょうがないで済まして、やるにしてもやらないにしても後先考えずに感情論だけで押し切るのは危険です。
どちらにしても将来的に禍根を残し、さらなる社会分断を招くことは必至ですからね。

個人的にはどうしてもこのオリンピック開催中止論議は、自分も当事者である氷河期世代の話と重なってしまいます。
あの時もとにかく不況を乗り切らなきゃいけないの大号令で、結果的に負債を当時の若者たちに押しつけられることになりました。
こういう比較をすると、経済不況と世界的なパンデミックでは話が違うという批判が必ず出てくるでしょう。
確かに色々な意味で違うことは確かです。でも、ただ今だけを考えるのか、それても声なき未来のことも含めて考えるのか、その選択があるという事実は同じであるはずです。
政府は一方的に規定路線を押し切るだけでなく、まずあらゆる可能性に対するデータや状況を開示して、国民が考えるための材料を与えるべきだと思います。
また反対を叫ぶ人たちも、やらないことだけを前提にするのではなく、様々な未来に及ぼす可能性も含めて、何をどうすることがベストなのかを模索するべきだと思います。

双方が感情的にならずに、また権力に依らず、ポピュリズムに流れないよう、倫理感と現実的な合理性の枠組みの中でうまく議論し合い、歩み寄れるような仕組みが切望されますね。
ていうか、その仕組みをいかに作るのか、それこそが今世界中で危機にある民主主義を復活させることのキーになるような気がします。
今この状況の中でいかに話し合い、分断を生まずに世論や国際的な視線に対して納得が出来る答えを導き出すことが出来るか。
そこをうまくやってこそ今のこの分断する世界の中で希望を見せられると思うし、結果的にやってもやらなくても、もしかしたらそこを話し合えるかどうかを試すということが、オリンピックの存在意義なのかもしれませんね。