「みんなが選んだルパン三世」を観て、改めて感じた宮﨑駿監督のすごみ

なかなか面白い企画でした。
金曜ロードショーでやった「みんなが選んだルパン三世」。
「ルパン三世:のアニメ化50周年を記念して、過去のテレビシリーズからファン投票で選ばれた4作を放映しました。

放映したのは、

第1位「さらば愛しきルパンよ」(第2シリーズ第155話1980年10月6日放映)
第2位「ルパンは燃えているか……?!」(第1シリーズ第1話1971年10月24日放映)
第3位「ルパン三世は永遠に」(第5シリーズ第24話2018年9月19日放映)
第4位「死の翼アルバトロス」(第2シリーズ第145話1980年7月28日放映)

の4作品です。
膨大な作品リストの中で、のちに巨匠となる宮﨑駿監督が作った作品が2作(「さらば愛しきルパンよ」と「死の翼アルバトロス」)が入ったわけです。
単純に宮﨑監督の名前が偉大過ぎて、知る人ぞ知るからこそわずかに宮﨑監督によって作られたこれらの作品が選ばれたというのはあるとは思います。
でも、作品を観ると、やっぱり宮﨑作品はほかとは違うというのはわかり、圧倒的に面白いんですよね。
正直、今回の選ばれた他の2作品と比べても断然に面白いですし、再放送などでこれまで観てきた作品と比べても面白いんですよね。

今回作品を観ながら、一体他の作品と宮﨑作品の何が違うのだろうと考えました。
同じ「ルパン三世」という題材を使いながらも、出来たものがここまで違うということは、やはりそこには「何か」があるはずなんですよね。

個人的に感じたのは、やはり「個性」をいかに出しているか、ですね。
今回の宮﨑作品を観て多くの人が気が付いたと思いますが、のちに宮﨑監督によって作られる長編映画にも同じもの物がふんだんに出ています。
「さらば愛しきルパンよ」に出てくるロボット「ラムダ」は「天空の城ラピュタ」に出て来るロボット兵そのままですね。
ヒロインであり、ラムダを操縦する小山田真希は、ナウシカとシータを合わせたかのような風貌のキャラクターであり、しかも声はナウシカ役の島本須美さんが演じています。
「死の翼アルバトロス」に出てくるアルバトロスは、もはや宮﨑アニメの中では至るところに似たような飛行機や飛行艇が出ていますよね。
しかもこの回に出て来る峰不二子は、いつもの峰不二子と違い、やはり宮﨑アニメに出て来る女性キャラクターを彷彿とさせます。
原画そのものも、もはや設定を無視して、宮﨑風になっていますしね。
アルバトロス内で繰り広げられる峰不二子の立ち回りを見て、ナウシカや「もののけ姫」のサンの立ち回りを思い出した人も多かったんじゃないでしょうか?

つまり後に映画で宮﨑監督がやることの原型をすでに若き日の宮﨑監督は行っているんですよね。
これが何を意味するのかというと、宮﨑監督は若き日から自分が好きなもの、描きたいことがハッキリとしており、それに忠実であり、それを描き切るためには妥協をしなかったということです。

実際「さらば愛しきルパンよ」も「死の翼アルバトロス」も宮﨑監督にオファーが出される前には別の台本が用意されていたそうです。
製作会社としては、スケジュールがいっぱいいっぱいで、宮﨑監督にオファーを出したそうですが、宮﨑監督は用意された台本には食指が動かないと言い、その結果、自分がやりたいことをやれるならという話で、監督を引き受けたんですよね。

これはね、作り手からすると、誰もがそうしたいと思う行動です。
でも、やりたいと思っても、現実的に出来ない。
それはそこまで言い切れるほど、自分の力を信じられないからであり、そもそも自分自身の「やりたいこと」「描きたいこと」を突き詰めて考えてきてもいないからです。

一方で宮﨑監督は、そこは基本的に妥協しない。
その代わりに自分が描きたいことに対しては、無茶苦茶追及もするし、勉強もするし、手抜きもしないのです。

作家としてあるべき姿です。
でも、非常にそれを実践するのは難しいです。
よっぽど実力がなくては出来ないことですし、実力があっても、周りにそれを理解してくれる人がいなかったり、時代が自由にさせてくれないといったことはいくらでもありますからね。

比べて申し訳ないのですが、今回放送された中で唯一近年のものとして放送された「ルパン三世は永遠に」は正直、宮﨑作品と比べてしまうとかなり没個性的に見えてしまいました。
技術的にCGなどが使えるようになっていても、小手先の技術でごまかしているような感もあり、決められた設定が強すぎてキャラが生きていないし、何よりも作り手の狂気が伝わってきませんでした。
ただ現在の作り手を擁護するわけではありませんが、莫大な予算が組まれる中で分業が当たり前であり、そもそも個人の意見がそのまま企画として通ること自体が難しいという状態では、どうしても尖がったことをするよりは、誰もがそれなりに楽しめそうな描き方をしてしまうんだと思います。
だから、結果的に面白くても響かない作品しか出来上がらなくなってしまう……。
もしも尖がったことをやって叩かれて責任を取らされるよりは、それなりでいいと思ってしまうのかもしれません。
悪い奴を悪い奴として描ないこと自体はいいのですが、深みなく観る人に言い訳をするようなキャラクターをたくさん作っても、やはりそれは魅力的には見えないんですよね。
話の作り方そのものにしても、現代性を表わすために、今のテクノロジーに合わせた内容設定にしているのですが、話がその分複雑になってしまって、単純に楽しむことが難しくなっている。
これは何でもかんでも「見た目の目新しさ」ばかりに制作側が目を奪われていることの弊害だと思います。
目新しくなければ、とりあえず企画書が通らないから、そうしている。
でも目新しいネタやテクノロジーを背景にしても、それは面白さとイコールではないんですよね。
まあ、そもそも今の作り手は、宮﨑さんのように個性をどう活かせばいいのかというのを学んでいない人が多いし、そもそも宮﨑さんそのものが怪物過ぎるという話でもあるんですが……。

自分らしさを持て。
大抵の人が多くの場所で言われる言葉ですね。
でも、ほとんどの人は自分らしさとは何かと問われても、おそらくちゃんと説明できない。
それは、自分らしさを持てと言われながらも、教育システムそのものは基本的に画一的で、よほど意識的に自分で頑張らない限りは、自分らしさを育てる機会が少ないからであり、社会そのものも個性を持ちすぎることを良いこととせず、むしろ社会に適応することを強迫観念とし、強者に従うことこそを常識としているからです。
その中で、多くの人は「与えられた場所で、自分らしさを発揮しろ」と言われます。
でも、自分らしさを発揮して失敗すれば、チャンスは失われ、責任を負わされます。
それに、そもそもこの社会には自分らしさを発揮できる余地があまりに少ないです。

わたしたちが宮﨑作品に心を奪われるのは、宮﨑監督が他のほとんどの人が出来ていない「自分らしさ」を存分に発揮しているからであり、それがしっかりと世に認知されるという事実を観ることが出来るからではないでしょうか。
だから、たぶんわたしたちは宮﨑作品に憧れを持つのです。

わたしたちは宮﨑監督のようにはできません。
でも、少なくとも宮﨑作品という指標はあります。
気付くのが遅すぎた。
そう思う人はいるかもしれません。
でもたとえ作品を作る作らないに限らず、「自分らしさ」は人生を豊かにします。

わたしは何が好きで、何をすることが楽しいのか。
どんな人物に心を奪われ、どんなにどんな人間に憧れるのか。
そうした自分自身の心に対して追及することで、人は初めて自分のうちなる声を聴くことが出来るかもしれないのです。

もしかしたら、宮﨑駿監督がずっとテレビや映画で問いかけていることって、自らのスタンスを示すことでそうしたことの大切さであるのかもしれませんね。