「王国」 著 中村文則

「掏摸」の姉妹編ですね。
「掏摸」で絶対悪として登場した木崎に対して、作者がどう決着をつけるのかが気になって読んでみました。
一読して感じたのは、「掏摸」で感じた悪に対する作者の嫌悪感が、悪に対してだけでなく、悪をシステムとして組み込むことを止めない社会そのものに対してのものなんだということがハッキリとわかったということ。
読む前に、勝手にこの作品は絶対悪である木崎の綻びを見つけ出し、そこに希望が何らかの光を見せてくれるのかも、と想像していました。
でも、読んでみるとそれは全然違っていて、ここからは多少ネタバレを含むので読んだ人だけが読んで欲しいのですが、木崎はやはり絶対悪のままで、この作品では絶対悪の弱点や綻びを描くこともなく、不測の事態によって道が変わったとしても、絶対悪は絶対悪として常に社会に存在しているんだという現実を絶望的なまでに知らしめているんですね。

あとがきに作者が書いているように、木崎とはグノーシス派のいうところの低級な神のメタファーであり、悪を見逃すどころか、積極的に他人を支配して不幸の底に叩きつけることに喜びを見出している人物です。
大抵の物語では、この手の悪者には天誅が下されるのですが、そうした選択をしないことこそにテーマがあると言わんばかりに、これでもかというほどに木崎の絶対性を描き続けます。
でも、それが露悪的というのではなく、こうした人物が嫌で嫌で堪らないという感情を絶望感とともに抱きながら書いているというのは伝わってくるんですよね。

作者である中村文則さんがどのような生い立ちであるのかは分かりませんが、恐らく幼少期に自分ではどうすることも出来ない社会悪を肌で感じながら育ったことは想像に難くありません。
そのときの怒りにも似た感情が筆を動かし続けている。
作者にとっては、現実世界には善行による甘っちょろいカタルシスなどあるわけがなく、社会のほぼすべてが悪意や打算によって出来ているということは、物を書く上で譲れない事実であるんだと思います。
じゃあ、絶対悪が君臨するこの世界で人はどうもがけばいいのかということを、作者は絶対悪へは決して近づくなという警鐘とともに語り続けているんですよね。
希望などそう簡単には見出せないということを訴え続けているわけですから、精神的にはかなりキツい作業であると思います。
でも、言わざるを得ない、書かざるを得ないから書き続けているんでしょうね。

正直、社会にはびこる悪の存在を認めなきゃいけないというのはしんどいです。
悪い神がいて、社会の仕組みをそいつらに作られていて、そこで生きなきゃいけない、つまりは生かされているっていいことを認めなきゃいけないことですからね。
もちろん、出来ることならそれを変えたい。
でも、それを変えるのは現状はおとぎ話に過ぎず、そんな無責任なことを語りたくないと作者は考えているのだと思います。
そして、だから、逃げるしかないと。

でも、やっぱり悪を是認するのはきついです。
何か、そんな絶対的な悪でも倒す方法はないか。
逆説的に、そんなことを深く考えてしまう小説でした。
もしかしたら、そうやって考えてしまうことを作者は狙っていたのかもしれませんが。