文化資本の広がりが成熟した社会を作る。

東大合格に「文化資本」はいらないのか。貧困の現場で考えた、目に見えない格差とは

文化資本と教育の話ですが、そうですね。
遺伝子というのもその人の人生を決める一つの大きな要因だとは思いますが、それと同様に育った環境における文化資本というのもかなり大事な要因になると思います。
基本的に子どもは親なり祖父母なり身近な人物の影響を大きく受けて育ちますからね。
当然、家に本がたくさんある家の子は、本に興味を持つ可能性が高いでしょうし、スポーツが好きな親に育てられた子どもは運動好きに育つ可能性が高いでしょう。
ブルドューのディスタンクシオンの話ですね。

そして、そうなってくると、子どもがいかに高い教育を受けるかという部分に焦点を当てれば、それは高い教育を受けることの重要さがわかっている親に育てられた子どもの方が、高い教育を受けられる機会が高くなる可能性があるというわけです。

当然といえば、当然な話ですが、問題はそれが「機会均等」の正当性を考える上で、果たしてどこまで「だからしょうがない」で済ましてしまっていいかどうかという点です。
文化資本と教育の関連性を認めず、そこに対して何ら対策を取らなければ、社会の格差は広がるだけでなく固定化され、さらには見えない形で身分制が生じることは間違いないでしょう。
だからといって、子どもには文化資本を与えず、あくまで平等に、という話になれば、それはかつての行き過ぎた共産主義の二の舞になってしまいます。

ポイントは、文化資本が充分に与えられていない子どもに対して、行政がいかにそうしたものに触れる機会を増やせるかです。
記事にもある通り、中には文化資本を受けないどころか虐待を受けて精神疾患を患う子どももいます。
そうした子どもをいかに見つけ出して、何を与えることが出来るのか。

今、岸田内閣において、こども庁の創設のために話し合いがなされていますが、新しく出来る組織には、ぜひそうした部分をよく考えた上で、より効果的な方法を導き出さして欲しいです。
すべてを自己責任論で片付けるのは簡単です。
でもそれでは問題を見ないと決め込んでいるだけで、何の解決にもなっていません。
ただ自分は関係ないと言い訳をしているだけです。
その言い訳の結果が今の行き詰まりであり、経済格差であり、社会分断であり、少子高齢化を助長してきたのは間違いないのですから。

すべての子どもに、スキルだけでなく、愛情を。そして社会文化とは何なのか、学ぶということになんの意味があるのか、そうしたことを誰もが自然に考えられる社会になってほしいですね。