冬季北京オリンピックが始まりましたね。
スポーツ自体は好きなので、楽しみではあるのですが、開会式後に予想通りに、東京オリンピックの開会式と比べる声が目立ち、そのほとんどが北京オリンピックの開会式を褒めたたえる一方で、東京オリンピックの開会式を蔑むものであったことには、ちょっと残念な気持ちになりました。
そもそもオリンピックの開会式は、スポーツ大会におけるフェアな闘いを宣言する場に過ぎないはずなのですが、どうもみんなそのことを忘れてしまって、すごいものを見せたもの勝ちみたいな感じになってしまっているんですよね。
確かに、開会式で中国が見せた技術力はすごかったけれど、そもそもオリンピックの開会式は万国博覧会ではなく、技術や政治を見せる場ではないんと思うんですよね。
技術だけを見れば、それは北京オリンピックの方が、東京オリンピックに優っており、もはや色々な意味で国力の差を見せつけられたと言っても過言ではないでしょう。
でも、オリンピックの開会式にとって大事なのは、オリンピック精神とは何であるのかを改めて確認することであるはずです。勝ち負けではなく、競い合うことによって生まれる感動であり、他者との融和の美しさを理解することこそが表現されるべきなんですよね。
技術云々で、すごいと思いのはいいと思うんですけれど、比べるならば、そこではなく、中国がオリンピックを開催することの意義をどれだけ理解しているのかをちゃんと表現出来ていたかどうかなんです。
その点から考えた時、正直わたしは今回の開会式には物足りなさを感じました。
別に東京を上げて、北京を下げるという気持ちではないですよ。
技術的には、みなさんが言うように本当にすごいと思ったんですから。
でも、心を震わせるような感動をどうしても感じなかった。そればかりかどこか空々しさすらも感じてしまったんです。
その理由は明らかで、中国が開会式で掲げたテーマは、国際社会で常日頃言われていることを優等生的に表面的に語っているようにしか見えなかったからです。
もう皆さん、ニュースなどで知っていると思いますが、台湾の選手入場の際に、「中華・台北」ではなく、「中国・台北」とアナウンスされていました。
これは、中華人の台湾ということではなく、中国の(一部の)台湾という意味でとられても仕方ありません。
しかも、中国の国内向けの放送では、台湾と香港の選手入場の時は、習近平国家主席の映像を流して、国民にそれを見せなかったそうです。
そして最終聖火ランナーの一人にウイグル人の起用。
これは、中国からしてみれば、ウイグルを弾圧していないというアピールなのでしょうが、何だか逆に白々しくも感じてしまいます。
まあ、だからと言って、出さないなら出さないで、何か言われたとは思うので、どうすればよかったんだという話に中国の人からすればなるとは思いますが。
ただやっぱりオリンピックの開会式で政治的なきな臭さがするのは、何だか嫌ですね。
本当はそもそも開催の条件に、政治的な紛争がない、人権問題を抱えていないというものを入れるべきなんだと思います。
それをクリアできないと、開催を許さないぐらいのね。
それだったら、オリンピックをやる本当の意味が大いに出てくると思いますが。
とにもかくにも、これは東京もそうでしたけれど、ちょっとオリンピックにお金をかけすぎていますね。
むしろ、開会式なんて、そんな技術的なすごさなんて見せつける必要なんかなくて、よりシンプルにした方が良いかと思います。
そういう意味では、個人的には、東京オリンピックの手作り感のある演出はあれはあれでよかったかもと今は思っています。
ただ、演出の割にお金自体はかかっており、その中抜きされた件に関しては、色々と思う所はありますが。