いやあ、よかったですね。
「カムカムエブリバディ」。
筋書きがこれからどうなるのか、これほどまでに気になった朝ドラはなかったです。
まず三人のヒロインという設定が斬新でしたね。
一人目のヒロインである安子がアメリカに渡ってどうなったのかを知らせないまま、最後まで引っ張るという荒業にまんまと気持ちを持っていかれてしまいましたよ。
このやり方は、今後も真似をするドラマが出てくるかもしれませんね。
そして大きな構成だけでなく、このドラマではテーマも光りました。
まず一つは家父長制に対して、静かにNOを突きつけている点。
三人の女性が主人公でありながらも、物語をよく読むと密かに男性論にもなっているんですよね。
まず安子編で、安子がアメリカに行かねばならない遠因を作った安子の義父である千吉と義理の弟である勇のスタンスが注目されます。
二人とも雉真という家に縛られており、分かりやすく家父長制に乗っ取って自分たちの権利を主張し、行使しているんですよね。
時代が時代だからしょうがないという意見もありますが、結果的に安子が勇ではなく、ロバートに気持ちがなびくのもよくわかります。
この時代は、本当に民主的であったり、平等思想を持つ、日本人は少なかった。だからこそ安子を救うことが出来たのは、アメリカ人のロバートだったんですね。
るい編で注目されるのは、のちに彼女の夫となる錠一郎です。
戦災孤児である彼は、トランぺッターとして成功し、るいを養うことを目指しますが、トランペットが突然老けなくなるという病気によって、その道を絶たれてします。
そのことに錠一郎は絶望し、るいを棄てて死を選ぼうとしてしまいます。
これは、家父長制を行使できなくなり、追い詰められていく男性を実にうまく表現していたと思います。
錠一郎はるいの愛情によって救われますが、面白いのは二人が結婚したあとでした。
家計の切り盛りはほぼるい任せで、錠一郎は働きもしない。
状況的に、これはヒモのようにも見えかねないのですけれども、錠一郎は子どもを育てることに重きを置いていくんですね。
まだまだ男は甲斐性と言われてしまう時代にあって、錠一郎の存在が家父長制のアンチテーゼになっていくように描いたのはとても面白かったです。
そして、そんな錠一郎と否応なしに比較されることになるのが、若い頃のひなたの恋人である文四郎でした。
結果的に、文四郎は時代劇役者として成功できなかった自分を卑下し、ひなたと別れてしまいます。
その後、彼がアメリカ人と結婚するエピソードを見ても、錠一郎に比べて、文四郎はまだまだ家父長背に囚われている、時代が変わり切れていない象徴として描かれているように思えます。
三人の女性の人生を辿りながらも、この100年の社会のありよう、男と女のありようを描いているのは面白いし、三世代の変化を追うからこその楽しみを感じることが出来ました。
そしてこの物語において光ったもう一つのテーマは、伴虚無蔵のいうところの「鍛錬」です。たとえ日の目を見ることがなくても、いつくることか分からない機会のために、鍛錬を怠ってはいけないという言葉に促されるように、ひなたも文四郎も鍛錬をします。そしてそんな彼らを見ていくうちに、視聴者は二人だけでなく、この物語に出てくる多くの人がそうした鍛錬を続けているということに気づいていくのです。
象徴的なのがラジオ英会話で英語が喋れるようになった安子で、英語が喋れることで彼女はアメリカで別の道を切り開いていき、ハリウッドのキャスティングディレクターにまでなります。るいも同じようにラジオ英会話を何とな毎朝聞いているうちに、ある程度英語が喋れるようになり、結果的に錠一郎の演奏旅行の際にマネージャーとして役に立てるようになります。そして、ひなたも条映映画村でその英語力が活かされるだけでなく、さらに安子の後を継ぐようにその英語力によってハリウッドのキャスティングディレクターとなり、さらに自らを育ませてくれたラジオ英会話の講師となっていきます。
それだけではありません。
時代劇俳優を諦めた文四郎もハリウッドでアクション監督となり、「鍛錬せよ」と言い続けた虚無蔵もハリウッド映画でデビューします。
そして、トランペットが吹けなくなった錠一郎もピアニストとして再び舞台に上がれるようになり、まさに大団円です。
みんなの「鍛錬」が実り、みんな、それなりに何者かになれたわけですからね。
いかに「鍛錬」つまり努力をし続けることで成果を生み出すことが出来るのかということをドラマ全体で語っていたのですが……、何なんでしょう、個人的には、最後の最後に違和感というか、モヤモヤとしたものが残ってしまいました。
努力することそのものが大事だというのはわかるんです。
虚無蔵さんの言うように、「鍛錬」を続けることにこそ意味があるということもわかります。
ただこんなにみんな、結果的にキャリアという目に見えるような形で努力からの成功を描いてよかったんですかね。
虚無蔵さんの言っていた「鍛錬」というのは、果たして個人の成功のための「鍛錬」だったのでしょうか。
努力をしたところで、それがキャリアなどの形として明確な結果が出る人は少数派です。
大多数の人は、そこそこの何かは手に入れることは出来ても、華々しい何者かにはなれません。
虚無蔵さんの「鍛錬」とは、たとえ自分が望むものを手に入れられなくても、それでも「鍛錬」をすることで、自分自身の心を救ってくれる、そういう意味だったんじゃないでしょうか。
わたし個人としては、そういうメッセージとして受け取り、勇気づけられたわけなんですけれども、まさかみんな目に見える結果を得る形で終わるとは思ってもみませんでした。
人生とは辛い部分もたくさんあるけれど、「鍛錬」をすることで心を救ってくれる。
目に見えるようなキャリアを得ることが出来なくても、「鍛錬」を重ねることで目に見えない幸福が見えるようになり、物の見え方を変えてくれる。
そうした自分自身の変化が自分に充足を与えてくれる。
朝の連続テレビ小説はこれまで基本的に目に見える形で何かを成し遂げた女性を描いてきました。
おそらくそれが分かりやすい形で視聴者のカタルシスを誘いやすく、視聴率を稼ぐための王道パターンだったのでしょう。
ただ立身出世=正義という考え方そのものが、バブルが崩壊し、貧しくなっていく一方の日本人の現在の価値観に合わなくなってきている部分もあると思います。
キャリアを築き、稼いだとしても、それが社会のためになっていなければ、偉いわけではありません。
そもそもバブル世代以下の人たちは、それより上の人たちほどチャンスに恵まれている訳でもなく、それなのにこれまでと同じノリの価値観で、キャリアを築いてこその人生であり、それを築けないのは「鍛錬」が足りないがゆえの自己責任だと言われても何だか納得がいかない話なのです。
もちろん、「カムカムエブリバディ」はそこまでキャリアや立身出世のすばらしさを謳っているわけではないのですが、「鍛錬」の意味を問うておきながら、結局はいつもと同じように話を立身出世で短絡的にまとめてしまっているところに、それまでずっと言っていたテーマとはズレる、ていうか、その終わり方でとよかったのか?と思わせるところがあるんですよね。
まあ、確かに安子とるいの再会は感動的で、特に深津絵里さんの演技が素晴らしく、感情が揺さぶられて見入ってしまったんですけれど。
氷河期世代のわたしとしては、世代的にわたしの直前までの人にフォーカスを当てられているので(ひなたはバブル期世代、桃太郎は氷河期世代だけれど、コネ入社)、何となく最後の最後で梯子を外された感があり、感動と同時にかすかな釈然としなさ加減が生まれてしまいました。
どうしてもひなたをラジオ英会話の講師にしたかったのでしょうけれども(それ自体はいいんですけれど)、でも、それでも彼女をハリウッドのキャスティングディレクターにする必要性はなかったように思われるのですが。
そもそも若いときの安子を見てからだと、彼女がどうしてハリウッドのキャスティングディレクターという職業に就く至ったのか、イメージがつかないし。
稔さんのいうように、日米の文化の懸け橋的なものになりたかったのでしょうが、何もハリウッド映画のような派手なものを持ち出さなくても、もっと地味でもしんみりとその人やその周りの人たちを幸福に出来るような役割の方が良かったような気がします。
なので、最後のこの辺りの描き方が……もっと「鍛錬」の結果を派手なものとせずに、目に見えないモノの価値に焦点を当ててくれていたら、わたしにとって「カムカム」は歴史に残る朝ドラとなったのですが。
まあ、本当に面白かったんですよ。
普通に感動しましたし。
最後でビリーにひなたが子ども頃から練習していた台詞を言えた(ある意味これは本当の意味で「鍛錬」の成果)というまとめ方は素晴らしかったですし。
でも、どうしてもね、何者かなることで首尾よくまとまってしまうという、ここの部分が引っ掛かってしまいました。
朝ドラという性格上、しょうがないといえば、しょうがない部分ではあると思うんですけれどもね。