「DEATH NOTE」 原作 大場つぐみ・作画 小畑健
わずか2年ほどの連載期間にも関わらず、与えたインパクトの大きさを考えれば、もはや伝説と言っていい作品だと思います。
名前を書き込むとその人物が死んでしまう死神のノート。
それを非常に頭が切れる人間が拾って使用したらどうなるか?
文字に変えればそれだけのワンアイデアをミステリーとして面白いということだけじゃなく、テーマ性にも優れたものとして仕上げられていますね。
まずアイデアがそれに耐えうるだけ優れたものであったことは確かなのですが、個人的に目を見張ったのは、構成術の巧みさです。
複雑な話を練りに練っているという点だけじゃなく、第一部の夜神月とLの出し抜き合いを対照的に見せていくというやり方が見事なんです。
いわゆる刑事コロンボ型のミステリーの構成術が基本で、最初から誰が犯人(つまり誰がキラなのか)が読者にはわかった上で、互いの思惑と隠しながら相手をやり込めようと進めて行く話なのですが、本作においてさらに特徴的なのは、あくまで主人公は夜神月であり、悪の側だという点です。
悪の視点に立って物語を進めるというのは、個人的には松本清張さんの短編を思い出しました。
清張さんは短編では結構、悪の側から事件を描いているんですよね。
悪の側から描くとなかなか感情移入がしづらいのではないかと思われがちなのですが、ヘンに正義論をふりかざす主人公よりもどこか共感してしまう悪の視点の方がむしろ読者は受け入れやすかったりするんですよね。
本作においての夜神月はそれにあたります。
夜神月になぜ多くの人が感情移入をしてしまうのか。
ここが本作におけるもっとも大きなテーマなのですが、ようするに多くの人は夜神月のように「死んだ方がいい」人間がいると心の片隅で思っているということなんですよね。
もちろん倫理的には間違っています。
ただどうしょうもない悪を目の前にした時、その悪を抹殺することは悪なのかという内なる問いかけがどうしても人を悩ませてしまうのです。
本作の第一部においては、そうした問いかけをノートの使用を通して提起する夜神月とそれに相対するLとの対決が、コロンボ方式のミステリ仕立てで観れるというこれでもかというほど贅沢で抜け目のない展開になっています。
本作を語る上で、多くの人が印象に残っているのは、最終回よりも夜神月とLとの戦いの顛末の方だというのも、いかに第一部がストーリーテリング的にも優れていたのかということを証明していますね。
ただ二部以降で若干、盤石であった一部の勢いが削がれてしまったことは、少し残念でした。
緻密さと言う点では、一部に引けを取らないくらい二部も素晴らしいのですが、いかんせん、Lに代わって出てきたニアとメロに感情移入が出来ない。
物語の都合上、Lのときと違って、夜神月が彼らと面と向かって戦わないという視覚上の問題もありますが、Lにあった人間臭さのようなもの、すなわち観ている人間が愛着を持てるような言動をニアもメロもしないということに問題があるんですよね。
ただ物語を最後まで読むと分かるのですが、ニアとメロがLとは違うというのは彼らの未熟さを示すもので、二人のそうした未熟さ自体がオチへの伏線となっています。
そう考えると、二人の性格付けは変えられない。
でもやっぱり一部があまりに優れていただけに、二部のこうした感情移入がしにくくなってしまって物語全体に失速感があるのはちょっともったいなく思ってしまうんですよね。
個人的には、夜神月とニアとの間で悩む役割を相沢ではなく、成長した松田にやらせた方が良かったのではないかなと思いました。
非常に重要なポジションなだけに、キャラ的に正直相沢では弱い。
当初からお笑い担当のような役割であり、読者に親しまれていた、つまり読者と同じ視点に立っており、しかもキラの必要悪を口にしていた松田を精神的に急成長させて、夜神月とニアとの間に立たせて大いに悩ませた方が、二部は盛り上がったんじゃないかなと思いました。
最後の彼の銃撃の意味合いも大きくなってくると思いますしね。
すみません。
あくまでタラレバの意見です。
何だか色々と言いたくなってしまうのは、それだけこの作品が優れた証拠だからなんですよね。
思わず言ってしまったついでにもう一つ。
個人的にはミサミサのその後が気になったので、そこは描いてほしかったなと思いました。
これは、結構みんな思っているんじゃないでしょうか。