「幸福な監視国家・中国」
著 梶谷懐・高口康太
これはとても勉強になりました。
いたずらに中国のこととなると過剰に身構えがちな日本人ですが、この本を読むと少しわたしたち日本人が抱いている中国に対するイメージと実際の中国とでは違うことがよく分かりますね。
昨今の中国に対する大きなイメージはやはり「監視」という一言に尽きます。
インターネットは規制されているし、そもそも政府を批判することは許されない。
SF小説で言うところの「1984」のディストピアですね。
ただ中国を「1984」と同じように捉えるのは間違いであり、日本を含めた西洋社会とは違う世界だと考えることも間違いだということがこの本を読むと実によくわかってきます。
イメージ的には、確かに中国共産党が「監視」を強化するために、ネット社会を広めたと考えがちなんですが、実は逆でネット社会が中国で広がったのを見た上で、中国政府がそれを利用し始めたというわけなんですね。
ネット社会が広がっているのは、日本も西洋も中国も同じなわけですから、中国共産党がしてるほど「監視」を行わなくても、広がるネット社会に対応していくうちに、日本や西洋も中国を追っていく可能性は充分にあるわけです。
実際、監視カメラは日本でも激増していますし、顏認証システムなども使われるようになってきていますからね。
つまり、分かりやすい独裁者がいて、その人物がネットによって監視をさせているというよりは、皆がネットによって監視されていることを選んでいると言っても過言ではないんですよね。
中国共産党はある意味目ざとくその潮流に乗っかって、この状況を大いに利用しているといった方が正しいのだと思います。
ただ西洋社会と中国との間に大きな違いがあることは事実です。
この本に書かれている中で、特に面白いと思ったのは、「市民社会」という言葉の認識の違いについてです。
今、「市民社会」という言葉を聞いて、多くの人が想像するのは、ボランティアやNPOなどの活動など、市民が自分たちの手で社会をよくするために行っている活動だと思います。
そういう意味合いで言えば、西洋と同じようにもちろん中国にも「市民社会」があるといえるでしょう。
ただ特に西洋で言うところの「市民社会」とはこうしたことだけの意味に留まりません。
あくまで革命を起こし、自分たちの手で「市民社会」をつかみ取った西洋諸国では、「市民社会」とは「市民的公共性社会」であり、私的な利益の実現の上に、いかに公共性を論じられるのか、その積み上げを議論の中でしていくことのことを言っているのです。
一方で中国を中心とした東アジアの国では、「市民社会」というものは、自分たちでつかみ取ったというよりも輸入されて根付いたと言える概念です。
あくまで自分たちで積み上げてきたものではなく、与えられたものであるので、市民社会の肝になるその公共性も上から与えられるものであり、公平を裁きを与えるためには、それを担う特別な人間が必要なんだという考え方をしているんですね。
持ち寄り型の秩序というやつで、そして公論として法が必要だという話です。
中国なんかは共産党が公平な裁きを与える方として絶対的にあり、その秩序の下で「市民社会」があるという感覚なので、西洋でいう市民が議論を積み上げていくからこその「市民社会」とは異質なものであるということがよく分かりますね。
そして同じアジアである日本も西洋よりもやはり中国型に近いと思います。
村社会的なところが多く、出る杭は打たれ、草の根で議論を積み重ねていくというよりも、意見の内容よりも、その意見を誰が言ったのかが重要視されていますからね。
今後は中国も日本も、そして「市民的公共性社会」である西洋であっても、先んじる技術革新によってハイパーパプティノコン化が進み、政府による一元的な支配というよりは、アーキテクチャーによる全方位的な相互監視社会になって行くと思われます。
個人ではなく、仕組みによって支配されていくというわけですね。
確かにそうした意味では中国が先を行っていますが、この問題は間違いなく今後、全世界に技術の在り方、ひいては人間社会の在り方が問われて行くことになりそうですね。