「明治十四年の政変」
著 久保田哲
伊藤博文、大隈重信、福沢諭吉……もはや教科書やお札でしか知らない明治の政治家や論客がこんなにも人間臭い攻防をしていたとは知りませんでした。
確かに世間的にそれほど知られていない話ですが、大久保利通暗殺後に、誰が権力を握るのかを考える上で、明治という時代の分水嶺になった出来事であることは確かですね。
面白いのは結果的には大隈重信が政府から追放されるのことになるのですが、勝利者である伊藤博文はそもそもそこまでは考えていなかったという点。
一般的には、これまで明治十四年の政変の原因といえば、大隈が密奏という形で提出された立憲政体の意見書がイギリス流の議院内閣制を主張していたことに、伊藤博文が激怒したからという理由が語られますが、それだけの話ではないんですよね。
前提としては、そもそも議会開設と憲法制定のイニシアチブをとりたかった伊藤博文が、薩摩グループとの協調を第一に考えていたことにあり、そこに大隈の意見書の密奏と開拓使払い下げ問題のスクープが重なったところにこの政変の帰結が導き出させるというわけなんですね。
つまり伊藤はどうしても議会開設と憲法制定のイニシアチブを取りたい。それに対して脅威となっているのが、自由民権運動のグループであり、そこで目立った主張をしていた福沢諭吉らであった。
→ 伊藤は福沢を取り込もうとしたが、大隈と福沢が繋がっており、彼らはイギリス流の議会が強い立憲政体を作ろうとしているという噂が立ったことにより、伊藤に焦りが生じた。
→ そこに開拓使払い下げ問題のスクープがなされ、それをリークしたのが大隈であるという噂が立つとともに、世間的には薩長の藩閥が悪であり、大隈が正義であるという印象が作られた。
→ 開拓使払い下げ問題のスクープに激怒した黒田ら薩摩グループと協調するためにも、また自由民権運動のグループに議会開設と憲法制定のイニシアチブを取られないためにも、大隈を追放することで薩長のグループが一致した。
という流れなんですね。
注目するべきは、すべてが噂に過ぎない話に皆が翻弄されていて、大隈が実際にどこまで自由民権グループと関わっていたのかはわからない点です。
確かに福沢とは仲が良く、意見も合い、実際に慶應義塾のの福沢門下生たちが大隈系の官僚として働いたのは事実なんですけれどね。
ポイントは間違いなく伊藤の懐刀である井上毅ですね。
ドイツ流の立憲政体を望む井上としては、どうしても伊藤に議会開設と憲法制定のイニシアチブをとらせなければならないと考えており、その最も障壁となるのが世間に強い影響力を持つ福沢だと考えていたんですね。
大隈を潰すことで、それに連なる福沢や自由民権運動のグループを潰そうと画策していたことは間違いないですね。
そのために彼が伊藤や岩倉の間で暗躍していたことは事実ですし、彼こそが政変の影の主役であったわけですね。
政変後、思惑通りに伊藤が憲法制定と議会開設のイニシアチブを握ることとなり、伊藤・井上の望み通りにそれらがドイツ流の立憲政体と取ったことは、その後の日本に多大を影響を与えて行くことになります。
そう考えると、明治十四年の政変はかなり大事な事柄になってきますね。
また政変後、政府の私学への圧力が強まり、結果的に慶應義塾の学生たちの多くが政治よりも実学に向かうことになったこと、また政府を追放された大隈がのちに早稲田大学となる東京専門学校を作ったことを考えると、この政変が教育にも多大な影響を与えたことがよくわかりますね。