https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1903/20/news013.html
エリートというものが何なのかを考えさせられる記事ですね。
要約すれば、裕福な家庭に生まれ、高度な教育を受け、エリートとなって大企業に勤めたとしても、その完璧主義と優等生としての習慣から飼いなされた仕事人となり、長時間労働と過度なプレッシャーからのストレスにより、一体何のために生きているのかがわからくなってしまう人が多くいるという内容です。
何か本当にこういう話を読んでしまうと、格差社会が推進されていくことへの意味が分からなくなってしまいますね。
恵まれた境遇に生まれ、恵まれた条件で仕事が出来ていても、その権力の大きな力に飲み込まれてその手足にだけになってしまえば、自分を見失ってしまうのです。
ようするに、今のままの一部の人たちだけが、資本もやりがいも名誉もその大部分を独占してしまうような世界では、バランスを欠いた世界になってしまうのは明白なんですよね。
極端の話ですが、たとえば、十人の人が会社の中にいたとして、そのうちの二人だけが多くの責任と負うと同時に多くの賃金を貰い、その一方で残りの八人が大したことがない仕事しかしないかわりに賃金も低いという環境と、二人がほどほどの責任を負うと同時に、賃金もほかの人たちに比べて相対的に高い程度で、その分残りの八人もそれなりの責任を負う代わりにそれに見合った賃金を貰う環境とでは、どちらが中長期的に見て効率的なのか、またどちらがそれぞれの幸福度が高まるのか、考えなくてもわかることですよね。
もちろん、能力や経験の問題も加味しなければいけないので、この通りにいかないのは百も承知ですし、すべてをフラットにすることは逆に問題を生むということもわかっていますが、ただそれでも出来る限り、賃金と責任はならせるところはならすべきだと思います。
本当に簡単な話だと思うんですけれどもね。
問題は、やはりいかに教育をしていくかということですね。学校教育もそうですが、会社に入ってからも、しっかりと教育を受ける機会が与えられるということと、そして首尾よく育ったならば、それに見合った賃金が与えられること。それらの賃金の原資は、経営者や役員が勝ち組だからといって必要以上の報酬を貰わないことで捻出し、その代わり、彼らも出来る限り、責任ある仕事を育った社員に任せていく。
出来る社員を増やすためにも、事業が多様性に向かうためにも、またコンプライアンスの目をきめ細やかなものにするというためにも、そして事業や社員のサイクルをうまく回すためにも、こうしたほうがどうみてもいいと思います。
人間偉くなってしまえば、どうしてもプライスレスな幸福よりも、跳ねあがる賃金に自分の価値を見出しがちになってしまうものなのでしょうが、自分にとって何が大切なのか、自分がどういう世の中で生きたいのか、エリートと呼ばれる人ほど、深く考えるだけの頭はあるのだから、考えてほしいですね。