永遠のこどもたち
2007年公開/スペイン、メキシコ
(ネタバレ注意)
ホラーとか、オカルトとか、サスペンスだとかいう括りで語ってしまってはもったいない映画ですね。正直結構怖い話で、怖がらせることにものすごい工夫を重ねながらも、それでいてテーマもキッチリと語っている傑作であると思います。やや細部で都合がよすぎる点もあるけれど、そんなものは吹っ飛んでしまうぐらいに映画に引き込まれました。
映画は孤児院で育った主人公のラウラが里子に出された後に、結婚したのちに夫と彼らの養子であるシモンの三人で、閉鎖された孤児院に戻ってきて、再び孤児院を始めようとするところから始まります。そこで霊を見えるシモンが新たに五人と子供と友達になったと、ラウラたちには理解できないことを語り、そしてシモンが自らの出生の秘密を知ったのちに、彼が失踪してしまうことで話が展開していきます。
うん、この時点ではサスペンス要素がかなり強いですね。シモンは一体どこに行ってしまったのか? 彼が口にしていた友達に連れさられてしまったのか、それとも事件の前になぞの訪問をした老婆が何か関係しているのか、と。
そして何ヶ月もたち、打つ手がなくなったところで、ラウラは霊媒師(←この人、チャップリンの娘!)に頼るようになり、ここからホラーやオカルトの要素が強くなります。で、このあたりから色々な過去の事実とか老婆の正体とかがわかってくるんですけれども、これが結構怖いんですよね。まあ、ヨーロッパの古い屋敷は、見るからに怖いんですけれども、それに合わせてやはり対象が子供というのが何か怖さを倍増させている感じがします。
そしてこの映画がただのオカルト映画で終わらないところは、先にも述べたけれど、ただ怖がらせるだけじゃなく、キチンとしたテーマがあるという点にあります。わたし自身がこの映画は違うな、と思ったところは主人公のラウラが途中からほとんど怖がっていないところなんですよね。ここに大きなテーマがあると。
普通、オカルト映画やホラー映画の場合、主人公に怖がらせて、キャー!とかギャー!とか言わせることによって、主人公と観ている人間との視線を一致させ、怖さを倍増させる効果を狙うのだけれど、この映画ではその手の効果は基本的に放棄し、別のやり方で観客の共感を誘っているんです。
それでそのやり方っていうのが、この映画のヒューマン映画的な要素であり、テーマになってくるんだけれど、結局ラウラの中では、目の前の怖さよりも、息子がいなくなったことに対する不安であったり、母親としての気持ちのほうが勝っているんですよね。自分はどうなってもいいから、必ず息子を見つけ出したいって、だから何が起こっても怖くないんだって。母親の強さというべきですかね。
そしてもう一つ目を見張るのが、ピーターパンの話やドッペルベルガー理論でうまくオブラードに包みながら、見えない世界をただの怖いものと位置づけずに、見えない世界を受け入れようという制作者の意図が伝わってくること。これがもう一つのテーマとも言うべき部分だと思います。大抵のオカルト映画やホラー映画の場合、霊や悪魔は敵にしか過ぎず、なんだかわからない、怖いものという位置づけに過ぎないのだけれど、この映画では最終的にその見えないものをどう理解していくか、という方向に進んでいくのです。
ここから考え方や価値観の違いで、鼻からそういう霊的な存在を信じない人(この映画ではその立ち居地としてラウラの夫をうまく使っている)にとっては、戯言にしか思えないのかもしれないですけれど、この映画では逆に、そういう目に見えないものを、目に見えないからといって、切り離して考えるのではなく、この世とつながっているもの、身近にあるものとしてとらえていくのです。
ラストのラウラの選択は、人によっては、生きていなきゃ意味がないとか、どうしてそうなっちゃうのかと、まるで逃げのように思う人もたくさんいると思うけれど、製作意図からすれば、当たり前の帰結かなと個人的には思います。あくまでラウラは見えない世界と見える世界とを、繋がった、同等のものとしてとらえるようになっているのだし、現実にそばにいてくれる夫への愛情よりも、何ヶ月も姿を見せない息子に対する愛情のほうが勝ってしまっているのだから、彼を含め、自分が見えない世界の住人になろうと、彼らを見守っていこうと思うのはむしろ自然なんですよね。
何だか色々な要素が絶妙に絡み合って、楽しむことが出来た映画でした。
ちなみに余談ですけれど、「だるまさんが転んだ」って、スペインにもあるんですね。映画では「1、2、3、壁叩け」って言っていましたが、何かそういうのって興味深いです。一体どこの国の誰が始めた遊びなのか、それとも万国共通で子供が思いつく遊びなのかな、と。。