「きみに読む物語」
2004年公開/アメリカ
女性にはたまらない物語ですね。そして幸せとは何なのかを考えさせられる物語だと思います。物語は療養所に入所している認知症の老女に、デュークとなのる老紳士がノアとアリーの恋物語を聞かせるところから始まるのですが、多くの人が最初から想像するように、それは自分たちの話であり、その話を聞かせることによって、夫は妻に記憶を思い出させようとしています。
作中彼らの子供や孫たちが出てきて、ノアにお父さんまで施設に入る必要がない、皆が交代で見ればいいじゃないかと説得するシーンがあります。そんな説得に対し、ノアは、妻は自分が愛し貫いた人なのだから、と妻がどんな状態にあろうと自分が最後まで面倒を見るという意志を見せるのですが、まあ、こんなことを言われちゃ、女性はたまらないですよね。ていうか、ここまで一人の人を愛することが出来たのなら、地位やお金や名誉なんぞ何もなくても本望なんじゃないかと思います。
そしてこの物語のいいところは、男女関係の美しさだけでなく、嫌な部分やどうしょうもない部分もしっかりと描いているところ。認知症になってしまった妻に、夫が物語を読み聞かせるという行為(確かに自分との思い出を忘れられちゃしんどいですよね)そのものもそうなのですが、若いときのエピソードにしてもイチャイチャだけでなく、絶えずケンカをしているシーンを描き、若いときにはどうしても埋めることの出来なかった二人の間の溝も、それも一つの愛の形として描いているのです。
このあたりを見ていると、男女の間というのは美しい時間だけじゃなく、色々なものが含まれており、たとえそれがそのときは嫌な思い出であっても、年をとればそのすべてが宝のような思い出となり、その宝がときに人に奇跡を起こすのだと思えてきます。
個人的に印象的だったシーンは、確執を続けていたアリーの母親が彼女を車で連れ出して、作業場で働く元の恋人を遠目で見るシーン。ここで母親は、アリーに何を選ぶのか、自分で考えるように委ねるのですが、この母親の中に、どうしょうもなく選んでしまった自分の人生を肯定しようとする自分と、奇しくも自分と同じ運命を辿ることになってしまった娘に自分を重ね合わせている自分がいるんですよね。のちにアリーは、ノアを愛する自分と、ロンを愛する自分とがまるで違うといっているのですが、一見かなり身勝手なセリフのように聞こえる、そういう矛盾を内包するのが人間であり、その中で責任を持って、自分がよいと思うことを選択することこそが人生なんだとこの映画は教えてくれます。
ノアがアリーに言うセリフで、君はどうしたい?という単純なだけに、おそらく誰もがドキッとする言葉があるのですが、結局は両親や恋人がどうしたいのではなく、重要なのは自分自身がどうしたいのか、なんですよね。
この映画は全体としては愛を貫くことのすばらしさをテーマにしているのですが、それ以上に、自分にとっての幸せとは何か?そして自分自身で何を選択することが幸せなのかをテーマとしてこの映画は描いているのだと言えると思います。つまるところ結局は、その人が自分に何をしてくれるのか、そしてどういう生活をもたらしてくれるのかではなく、重要なのはその人と一緒にいて、どういう自分でいられるか、なんだと思わされますね。
そしてなぜアリーがノアを選んだのかというと、アリーがノアといられることで、自分らしくいられたからだったと思います。アリーが絵を描いているときが自分らしく生きられると物語の冒頭から語っているのですが、自分が絵のことを話して、書けばいいと言いながらも、それを積極的にわかろうとしないロンに対し、朝起きたら、家に絵を描くための準備をしてくれていたノアのほうが、アリーが自分のことをわかってくれていると思ってしまうのは自然なんだと思います。
家柄とか、仕事とかつまらない表面的なことにとらわれずに、自分の気持ちに正直に自分に合う人を見つけたからこそ、アリーにはたとえ自分が認知症になっても、幸せでいられるご褒美がもらえたのだと思わされますね。
男の僕からみても、誰かとこういう関係を築ける一生っていうのは幸せなんだなと思える映画でした。