「17歳のカルテ」
1999年公開/アメリカ
何をもって人間というものを定義として他人が決め付けるのか考えさせられる映画です。主人公のスザンナは、社会にも両親にも反抗的で、自分が何者であるのかを迷い、わからず、衝動的に自殺を考えてしまう女の子であるのですが、見た目には、ほかの人と何ら変わらないティーンエイジャーです。
そんな彼女が高校卒業直後に、アスピリンを大量に飲んで自殺未遂(本人は違うといっているが)をしたことにより、両親に精神病棟に入れられてしまいます。
わたしは、普通なのに。そう主張する彼女は、精神病棟にいるほかの患者の奇行ぶりを見て、驚きながらも、自分も彼女たちと同じなのかもしれないと心の中で感じ始め、日記と向き合い、何かを書き付けることで空想に逃避し、自分を整理するしかありません。
そんな中で出会ったのが、脱走中から捕まり、戻ってきた病棟のトラブルメーカーであるリサです。8年間もこの場所にいる彼女は、いつも強気で、ときには皆をリードし、ときには皆を追い詰める、いい意味でも悪い意味でも、カリスマ性を持った女性です。
スザンナは、そんな彼女の行動に驚かされながらも、彼女の魅力に惹かれていき、次第に彼女との距離を縮めていきます。
そんな中で、顔にひどい火傷を負ったポリーという患者が発作的に悲観して暴れるシーンがあるのですが、、独居房のような場所に入れられたポリーをスザンナがギターと歌で励ますシーンはとてもいいシーンでした。選曲されたペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」も、今やオールディーズの名曲となっていますが、この時代性を表し、かつ彼女たちの心情を表す、これ以上ない選曲であったと思います。
しかし、結局それらの行動がバレて、リサは、別棟に移されることになるのですが、これがスザンナとリサを脱走させるキッカケとなってしまいます。二人は、すでに退院したデイジーのアパートにどうにか辿り着くのですが、ここから物語は急展開し、そしてこの映画の持つテーマが、露骨なぐらいなショッキングなやり方で、観ている人間の心を突き刺してくるのです。
先に退院したデイジーを、リサはいつものように、言葉で追い詰め、そして彼女が近親相姦をしていることを見抜いて、なじります。そして朝、スザンナが眼を覚ますと、デイジーは首を吊って自殺をしているのを発見してしまうのです。そんなデイジーをバカな奴だというリサに、スザンナは違和感を覚え、デイジーの金を盗み、さらに逃亡をしようとする彼女と道を分かつ決心をします。
そして病棟に戻ったスザンナは、傷心からどうにか立ち直り、ここままではダメだと悟り、自分の弱さを認め、それを自覚することこそが社会復帰への道であるのだと、必死に医師との面談に努めるようになります。やがてそんな彼女の努力は、医師にも認められて、彼女は退院することを認められるのですが、そんな彼女に再び試練が訪れます。リサが帰ってきたのです。スザンナの退院を知ったリサは、彼女の心の拠り所であった日記を盗み、真夜中に皆の前で朗読します。そしてそれを阻止せんとするスザンナに対して、リサは、デイジーにやったときと同じように追い詰めていくのです。
ここで、スザンナとリサの二人の本当の関係が、ハッキリとした形で浮かび上がってきます。スザンナにとって、リサは親友であり、憧れであった半面で、彼女は自分自身の弱さであったり、恐怖を映し出す鏡でもありました。それは、リサにとっての、スザンナも同じで、リサは、自分が他の患者を追い詰めるのは、自分自身の真実も、他人の口から知りたかったからなのだと告白します。そしてあなたはもう死んでいると同じ人間(つまり何を言っても治らない人)だから、皆は何も言わないのだと言うスザンナに、リサは泣き崩れ、二人の関係に終止符が打たれるのです。
異常ではない。ただ揺れが大きいだけ。
退院するスザンナが言った言葉ですが、とても印象に残った言葉でした。そもそも正常であることの基準などなく、彼女の言うように、外の世界だって、ウソだらけの世界なのです。大事なのは、個性であり、人それぞれであることを、皆が認め合っていくということだと思うのですが、そういったことを押し付けるようなやり方をとらずに、感じさせてくれるこの映画は、やはり名作であると思います。
それにしても、リサ役を演じた、世に出たばかりのアンジェリーナ・ジョリーは異常に上手いです。ウィノナも悪くなかったのだけれど、完全に呑まれてしまった感はありあますね。アカデミー賞では、主に助演女優賞しかとらなかったのですが、この映画はその内容そのものももっと評価されるべき映画だと思います。