自助・共助・公助を考える。

菅さんが首相になってしばらく経ちました。
支持率は思った以上に高いのですが、とりあえずまずはしばらく様子を見てからちゃんとやれる人なのか評価をしたいところですね。

さて菅さんが自民党の総裁選挙に臨むに当たって公表したスローガンがネット上でフツフツと物議を醸しだしています。
「自助・共助・公助」というやつですね。
自助は自分でやれることは自分でやれということ。
共助は家族や地域コミュニティなどお互いに助け合えということ。
公助はやれない部分は公の力でなんとかしましょう。
ということです。端的に言えば。

左派の人たちは、この三つの言葉の順番を問題にしています。
つまり、この並びだと、出来る限り自分でどうにかしろということを第一に掲げているように見え、また政府が助けるというのはあくまで出来ない場合に限ってですよ、と暗に言っているように見えるというのです。
まあ、戦争のときに政府に散々戦争に駆り立てられた挙句、「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」と国民に我慢を強いて、自分たちのことは自分たちでどうにかしろと言われ続けた過去があるので、左派の人がこの言葉の並びに意図的に思えて、過敏になるのはわからないでもないです。

一方で、これに対して「資本主義なんだから、自分のことは自分でするのは当然だろ」という声があります。
少し右寄りな人や保守的な人が普通の意見だと言って、ネット上のコメント欄などでさかんに言われている意見です。
確かに自分のことは出来る限り自分ですることは大事なことです。
子どもへの教育じゃありませんが、自分で出来ることをやらないと、何でもかんでも他人任せになってしまったり、されることが当然となってしまって、やれることもやれない人間になってしまうかもしれませんからね。

ただ個人的には、この言葉には正直怖さも感じます。
自分のことぐらい自分でやれ、というのを前提にしてしまって、それが当たり前の話だという意識が社会に広がってしまえば、結果的に弱者の声をかき消し、追い詰めてしまうことになりかねないからです。実際、異常に世間体を気にする日本社会の息苦しさが自殺率を先進国の中でも最悪レベルになっていますからね。
それに第一、そもそも「資本主義なんだから、自分ことは自分で」という考え方自体に矛盾も感じます。
資本主義を前提にするならば、あくまで機会均等も前提にしなければおかしく、教育格差や地域格差が広がっていく中では、理屈的に無理があります。
資本主義を前提にするなら、まずは格差をなくし、出来る限りの機会均等を実現しなければ話がなりたちません。
自覚があるなしに関わらず格差の上の方にいる人たちは、「ちゃんと勉強すればいいのだから、すでに機会均等の世の中だろ」と言うかもしれませんが、そもそも大学に行くのが当たり前であって、親から教育を与えられる子どもと、リソースや文化資本がほとんどなく、勉強することの意味すらもわからないまま成長してしまっている子、自分が高等教育を受けることを想像すらしていな子とではスタート時点でかなり違います。そして、みんなが思っている以上に、こうした見えにくい格差がどんどんと広がっているのが今の日本社会なんですよね。そして、その子供の格差を放置してしまうからこそ、非行が犯罪に走る子どもが増えて、確実に社会そのものが悪くなっていくばかりなのだです。

「自分のことは自分でやれ」と弱者の口を封じるかのように抑えつけるやり方に疑問を持ちますし、また何でもかんでも政府にどうにかしろという極端な左派主張にも違和感は覚えます。財政的にやれることはどうしても限られてしまっており、下手にばら蒔くと未来の世代への借金がさらに膨らむだけですからね。

じゃあ、どうすればいいのか、という話になりますが、もう一度「自助・共助・公助」という言葉に注目して見てみると、みんながあまり注目していない「共助」という言葉があります。わたしはこの「共助」をもっとよく考えてみることで、社会解決と社会的分断の解消の糸口を見つけられるのではないかと思います。

「共助」と言われて思いつくのは、まず家族です。あとは町内会とかPTAですね。
まあ、家族はわかりますが、町内会やPTAは正直面倒くさいものとしてしか感じていない人が多いと思います。
これらの組織は形骸化しつつあり、特定の人には恩恵がありますが、その反面でメリットを感じない人もたくさんいるのも事実ですからね。
また家族についても、どこの家族も仲良く助け合えるならいいのですけれど、残念ながらそうじゃない家族、支配的な人が牛耳っているような家族もたくさんあるわけで、家族だからどうにかしろというのもちょっと酷な面があります。
政府としては、介護や子育てなど、面倒なことは出来る限り自己責任、もしくは家族でどうにかしてというのが本音でしょうけれどね。。。

そうなると「共助」にもあまり期待が出来ないじゃないか、という話になりますが、多くの人が意外と頭に結びついていないのですが、実はNPOやNGOの活動も「共助」の括りに入るんだということです。
むしろ個人的には、家族や町内会以上に、「共助」といえば、NPO・NGOの活動のことをメインに指すべきなんじゃないかとすら思います。そして、ここに力を与えることで社会が大きく変わる可能性があるはずなんですよね。
具体的には、政府や企業がこうした「共助」を担うNPOやNGOと結びつき、財政面で支える。
NPOやNGOもただお金を貰うばかりではなく、活動を一般的に知ってもらう努力をして事業収入や寄付金で運営の道筋を少しでも立てる。
一般の人たちも、ただ自分とは関係のない善意の人たちとNPOやNGOを傍観するのではなく、自分が関心のあることについては寄付やボランティアなどで活動に参加してみる。

政府セクターと民間セクターだけで社会を考えるのではなく、第三のセクターである多元セクターが前者二つと同じくらいの力を持ち、三つのセクターでバランスを保つことによって様々な社会課題が解決に向かう。
そう言っているのは、ミンツバーグというカナダの学者です。
個人的にはこの考え方には大賛成です。
ミンツバーグが唱える政府セクター・民間セクター・第三セクターのバランス。
これは、そのまま「自助」「共助」「公助」にも当てはまりますね。
つまり、順番云々とか、どれを強めるかとかじゃなく、この三つの力関係をいかにバランスよく保つかということ。
具体的には、圧倒的に力が弱い共助=第三セクターの力をいかに強めるかということで、社会のバランスが良くなっていく。つまりは、社会として成熟してくんだと思います。

ただ菅さんがそういう考えで「自助」「共助」「公助」という三つの単語を並べたかどうかはわかりません。
三つの単語の後に、「そして絆」という美麗美句を付け加えている時点で、何となく胡散臭い感じもしないではないですが、現時点でまだ何もやっていないのでスローガンだけで評価をするのは早計でしょう。

まあ、ただ正直菅さんもちょっと説明不足で、派閥に気を遣うのではなくもう少し自分の言葉で喋ってほしいとは思いますが。