「偏差値が30も低い年下課長に顎で使われています」学歴不要を主張する旧帝大院卒50代男性
いわゆる学歴というものが人を測る上で本当に必要なのかどうかを問うている記事です。
確かに有名な大学を出ていてもコミュニケーションが取れなかったり、何をするべきなのかわかっていなかったりと、社会ではなかなか活躍できない人もいれば、大学なんて出ていなくても、どんどんと自分の活躍の幅を広げて行ける人はいます。
ようするに一般的に卒業した大学の名前が社会適応能力において人を測る基準にはあまりならないという話なんですが、冷静に考えればちょっと待てよ、とは思います。
そもそも大学は学者や研究者を養成する場所であり、企業に適応出来る人間を養成する場所ではないんですよね。そう考えると、大学の名前によって企業における社会適応能力を測ること自体がナンセンスなのではないかなと思います。
いやいや大学の存在意義は昔は確かに学者や研究者を養成する場所であったけれど、今は違う。これだけたくさんの人が大学に入っているのだから、大学教育は企業への適当と直結するべきだという考え方もあるでしょう。
確かに大学の在り方自体が変わってきていることは間違いないでしょう。ただそう考えるならば、学生、大学、そして企業のそれぞれがいかに大学で学んだことを企業活動に活かせるのかをそれぞれでよく考えなければいけないのではないでしょうか?
学生はまず大学にも企業にも目的意識をキチンと持った上で入ったほうがいいでしょう。自分がこうなりたいという立身出世だけの発想ではなく、社会にとって自分が何をする人間になるべきか、それに対して自分が何を勉強すればいいのかを出来る限り深く考え続ける必要があるでしょう。
大学はそんな学生に対して、彼ら彼女らが視野を広げて勉強が出来るよう手助けをする必要が求められるでしょう。専門的なことをただ教えるだけではなく、教えたことがどのように社会に活かされるのか、また社会に貢献するために個々人が何を手がかりに勉強をすればいいのか、その思考の仕方を学ばせるのとが大事なのだと思います。
そして企業は、そうやってキチンと学んできた新入社員に対して、彼ら彼女らが学んできたことが生かせるよう、いかに働いてもらうことを考えることが肝要かと思います。この会社はこうだから、これだけやってという形では社員は育たないどころかモチベーションも下がる一方ですし、無意味なブルシット・ジョブが増えていくことでしょう。そういう仕事や学んできたことを活かせない人材が増えることで、企業は停滞していくのだと思います。
学歴があるくせに仕事が出来ないという話はよく聞く話です。しかし大抵の場合はその人の能力不足にばかり視点がいってしまい、話がそこで終わってしまうことがほとんどです。
確かにそもそも本人の意識不足や勉強が出来ること以外での経験や能力の不足はあるでしょう。ただ大学が学生を社会に適応させるために専門の以外になにをどう学ばせるか。また企業も学生が学んできたことをどう活かし、またどう育成するのか。それらを考えることも大事であり、また現状意外とそれらがなおざりにされていて、大学と企業との間で人材の育成を押し付け合っているというのも事実なのです。
いかに大学と企業が連携をし、人材に高い意識を持たせることが出来るのか。そして彼らが育つように手を貸すことが出来るのか。
人材育成を当人の意識に任せるだけじゃなく、大学や企業などをはじめとして社会全体で考え、実行することが出来れば、学歴があるのに仕事が出来ない人をかなり減らしていくことが出来るのではないでしょうか?
そもそも地頭のいい人たちですからね。そうした人たちをうまく活用しないのは、社会にとっても大きな損失で、とても非生産的な勿体ない話なんですよね。