「シン・エヴァンゲリオン劇場版」
2021/日本
四連作における最期の作品ですね。
これまで過去三作からの伏線およびテレビシリーズから続く旧世紀シリーズからの決着をいかにつけるのかと注目された作品ですが、結論からいうと、庵野総監督はしっかりと作品を終わらせることが出来たと思います。
ここから先は、ネタバレになるので、観た人だけが読んでいただければと思います。
本作における冒頭の戦闘シーンは、いわゆる観客をエヴァの世界観に引き摺り込ませるための効果的な導入部と言えるでしょう。
こうした最初に目立ったドンパチを見せるというのは、エヴァに限らず今や映画やマンガの常套手段であると思います。
なので、前作からの続きとして観客席が感情移入していくのは、前作のシーンの続きとなるシンジ、アスカ、レイの三人が歩いて行くシーンからになります。
そして彼らが第3村と呼ばれる避難民たちのコミニティーにたどり着き、ひとまずここで生活を始めることでようやく本作の話が動き始めるのです。
ただ、この第3村のシーンがすこぶる長い。
しかもすっかりと心を閉ざしたシンジが動かないどころか喋りもしないので、観ている側としてはもどかしさが募り、実際の尺以上に長く感じるシーンなんですよね。
でも、実はこの長くて地味なシーンがある意味でエヴァという話のテーマの根幹といってもいいぐらいに大事なシーンになんです。
それはそうですよね。
エヴァという話はあくまでシンジの心象心理を追いかける話であり、そのシンジが自分の殻を破って自分らしさを獲得する話なのですから、その当のシンジの心のベクトルが良い方向に、陰から陽に変わるのがこのシーンであれば、このシーンがそれだけ大事になってくるんです。
もっといえば、このシーンでシンジが大人になって、前向きになった時点で、物語の解決が見えたも同然になっているんですよね。
そして、シンジの気持ちがなぜ変わったのか。
その方法をレイを使ってみせたのは見事です。
ご存知の通りレイは14年前にシンジが知っていたレイとは違うクローンであり、碇ゲンドウの命令以外は何も知らない無垢な人です。
そんなレイが人々に混じって働き、交流を重ねていく中で人の感情を知っていき、そしてシンジにもそのことの大切さをそのままの言葉で伝えようとする。
シンジは繰り返し行われる彼女の人としての問いかけによって人々の優しさに気がつき、人間を自らのうちに取り戻すことが出来たわけですね。
そしてこうした流れの中で、アスカの気持ちを巧みに入れ込んでいることにわたしたちは目がひかれます。
アスカも言葉とは裏腹にシンジに立ち直って欲しかった。
でも、アスカもまたシンジの知っている14年前のアスカとは違って精神的に大人になってしまっていて、もう同じ関係には戻れないことも知っている。
今のシンジを立ち直させることが出来るのは、自分ではなく、母親の残滓が残るレイであることが認めたくないながらもわかっていくんですよね。
それを認められたからこそ、彼女は出撃する前の最後の時間でシンジとキチンと話すことが出来たわけだし、かつて抱いていた自分の気持ちを告白して、自分の肩に乗っていた重しを外すことができたわけです。
エヴァといえば、シンジ、レイ、アスカの三角関係がある意味で物語の一つの肝となっていますが、それをこうした形、つまりレイを媒介としてシンジとアスカが大人になることで解消していくという形をとったというのは、誰かと誰かを恋愛的に成就させるような、ありきたりなハッピーエンドで終わらせるよりもずっといいと思います。
そして、物語はその後、父碇ゲンドウとの戦いにむかっていきます。
エヴァという話自体が父親との関係性において成り立った話なので、最後はそこから逃れられません。
いくらシンジがひと皮向けて大人になったとしても、父親と面と向かって話さない限りは、シンジは次のステップには進めず、耐えず父親の抑圧に恐れるアダルトチルドレンにしかなれないのです。
そして、父親との対峙の前にシンジと語らうことになるのは、やはりミサトさんでした。
「Q」以降シンジに対して冷たい態度を取り続けていたミサトさんですが、かつてよりも少し大人になったシンジを見て態度を改めます。
彼女は今のシンジになら、父親に負けることなく対峙できると確信し、初号機にシンジが乗ることを許可し、さらに彼の援護をすることを決めます。
ここで父親と対峙するシンジの背中を最後に押したのがミサトさんというのはエヴァシリーズ全体から見ても象徴的なシーンです。
父親とまともな関係を築けないシンジにとって、ミサトさんはずっと彼の先をいく鏡として描かれ続け、絶えず彼の後見人のような立場で彼を見守ってきたわけですから、彼女がシンジを認め、彼を信じることが出来たときこそが、シンジが初めて独り立ちをする瞬間でもあったわけですね。
その後、シンジは父親と力で戦おうとしますが埒が明きません。
それはそのはずです。
力で父親を屈服させたところでそれは何の解決にもならないからです。
シンジは父親と面と向かって腹を割って話し合うことを望みます。
父ゲンドウもそんなシンジの決意に押されるように自らの本当の気持ちを話していきます。
本当はシンジとどう接していいのか怖かったこと、妻であったユイ以外の他人とは心の交流が図れないこと、だからこそユイがいなくなって自分がどうしたらいいのかわからなかったこと。
父の告白に、シンジは父も自分と同じであったことを知ります。
そして、そのことがわかったからこそ、シンジは自分が自分であることの責任でもって、自分の整理がつけるべきだと思います。
ここまできたところで、エヴァンゲリオンという話のすべてがシンジの、もっといえば原作者である庵野秀明さんの心象風景だということがうっすらとわかってきます。
父ゲンドウがいなくなったあと(つまりは父に対するトラウマを理解し、適切な距離の取り方がわかった)、シンジは自分の記憶の中にあるアスカと対話します。
アスカの心の声に耳を傾け、シンジ自身のアスカへの気持ちを素直に話せたことで、二人は離れ離れになるという選択を選ぶものの、二人の距離間を適切なものにしていきます。
次にシンジはカヲルと対話します。
カヲルの存在そのものが父にそうあってほしかった存在であると知ったシンジは彼との別れを選びます。
そして最後までシンジの心に残るレイと対話します。
母親としての残滓が残るレイからすれば、シンジの今後が心配でなりません。
だから彼女はシンジとともにいたいといいます。でもシンジはそれに対して自分は大丈夫だと言って首を横に振ります。
それは、親に対する子どもの親離れを意味していることは想像に難くないでしょう。
そしてレイも出ていきます。
最後に彼らが出て行った部屋が撮影スタジオだってというのは、出て行った彼らがもはや決められた役を演じるのではなく、それぞれの「自分」の人生をこれからは歩んで欲しいというシンジおよび作り手側の願いと、自分の殻を破り、他者を他者として尊重しながらも適切な距離を持って生きるべきだというメッセージが込められていると思います。
長く続いたシリーズが言いたかったことがここに全部集約されているわけですね。
そして誰もいなくなり、取り残されたシンジの前に一人の女性が現れます。
そう、マリです。
正直、本作を観て一番驚かされたのは、この真希波マリというキャラクターの正体でした。
それは、ネルフの副司令である冬月がマリに向けて発した、彼女のあだ名が全てを物語っています。
イスカリオテのマリア。
これは、マリが碇ゲンドウや冬月にとって裏切り者のユダであることを示しています。
この言葉と、それまで垣間見られていた情報から、マリが実は、ゲンドウ、ユイ、冬月ととも研究をしていたグループの一員であり、ユイの死の前後にユーロに向かい、そしてニアサードインパクトの後、ミサトさんやリツコさんとともにネルフを裏切ったということが示唆されます。
「破」までほとんど何も知らされていなかったミサトさんが「Q」において、ネルフや碇ゲンドウの欺瞞を確信しているところをみると、そもそも最初からゲンドウらと行動し、彼らの目的を全て知っている立場にいたマリが、彼らの暴走を止めるべくミサトさんたちに真実を告げて、ネルフを裏切るように画策したのはほぼ間違い無いでしょう。
では、なぜマリはそのような行動を取ったのか?
そこにこそ、エヴァシリーズにおける裏テーマがあります。
なぜマリはゲンドウと冬月を裏切ったのか。
それは、マリだけが死んだユイの気持ちを理解していたからにほかなりません。
孤独に打ちひしがれてただユイと再会することだけを願って人類補完計画を進めるゲンドウは、マリの目には自分勝手で思い上がった人間としてしか映りません。
ユイも自分とまた一体になることを望んでいるとゲンドウは、勝手に判断していますが、ユイを慕っていたマリは、ユイはゲンドウたちの行いを望んでいないこと、そして忘形見であるシンジの中にこそユイが生きていることを知っていたのです。
そしてマリは密かにチャンスを伺っていた。
ミサトさんたちに反ネルフの旗印になってもらう一方で、彼女はシンジの復活に備えるべく、アスカのメンタルが崩壊しないよう、アスカに気づかれることもなく自然と彼女を見守ってきたわけですね。
実際本作を観た後では、それまでのアスカとマリの絡みがまったく違うものに見えてきます。
姫と呼んで彼女を尊重し続け、常に同じ立場の人間として彼女を支え続けていたんですね。
それは、単に仕組まれた子として運命に翻弄されるアスカに対して、不憫さと親しみを感じていたというのもあると思いますが、同時に彼女は、アスカが適切な距離を持って接することによって、シンジが殻を破るきっかけを得ること知っていたからなんですね。
ラストで現実世界に戻り、大人となったマリが現れるのは必然です。
恋人とかそういうわかりやすい関係というよりは、人と適切な距離の中で他人と接することが出来るようになってきたシンジにとって、マリはそれを見守る守護者のような存在といえるでしょう。
そしてそのことが何を意味するかというと、マリのように出しゃばることもなく、自分勝手な思い込みに囚われることなしに、相手の気持ちと社会のあり方そのものを鑑みて行動が出来る人こそがこれからの時代のロールモデルとなるべきであり、そうした人間がいてこそ、シンジやアスカのような子も救われていくという話だと思います。
そのことは、マリの苗字を見ても、庵野さんの意図が読み取れます。
多くの人が気づいていると思いますが、シンジを取り巻く、エヴァパイロットの苗字は、綾波、式波、真希波とみんな「波」という感じがつきます。
そしてゲンドウの良心の分身ともいうべき、渚カヲルの苗字は「渚」で、これもまた波打ち際を示す言葉です。
つまり、「碇」のように自身の重さに囚われて沈んでいる「碇」シンジや「碇」ゲンドウを必死に動かそうとしているのが、「波」であり、「渚」であるのです。
その中で、「真希波」を字面通りに読むと、真の希望の波ととれるんですね。
おそらくこのキャラクターを作った当初から、マリの最後の役割は決められていた。
もっといえば、この真希波マリというキャラクターを描きたいがために新劇場版を作ったのかもしれませんね。
多くの人がマリのモデルは庵野さんの妻である、漫画家の安野モヨコさんではないかとうっすらと思うと思いますが、もしかしたら、新劇場版というのは、マリというキャラクターを通して安野さんへの感謝の気持ちを庵野さんは描きたかったのかもしれません。
確かにそれならば、マリを最初からもっと念密に、情動的に描いて欲しいという意見があるかもしれませんが、おそらくそこはマリというキャラを作り手側で特定するよりも観ている側に想像してほしいと考えたのだと思います。
ロールモデルをあまりに一つの枠に限定しすぎることは、それはそれで危険ですからね。
いやあ、前作までは正直言ってこの真希波マリというキャラクターにはほとんど興味を持っていなかったんですが、最後の最後で評価を一変させられました。
これほどまでに作り手とキャラクターと観ている側の境界線が良くも悪くも曖昧である作品は観たことがありませんが、それも全部含めてエヴァの世界観であり、この作品をほか作品が真似できない傑出したものにしているんですね。