「ザ・ファブル」

「ザ・ファブル」
2019年/日本

人気漫画が原作の映画ですね。
わたしも原作を読みましたが、非常に面白い漫画でした。
面白い漫画だけに、映画化はある程度興行収入的には期待できるものの、内容的には、どうしてもハードルが高くなってしまいますね。

映画を観てまず思ったのは、基本的に漫画のストーリーを壊さずに追ったんだなということ。
ラストの砂川らの一味と小島との対決場面への持って行き方が異なっていましたが、それはあのゴミ処理場でのアクションシーンを壮大に見せなければ行けなかったのと、映画的に人物の出し入れを単純にした方が観やすいと判断したからでしょう。
なので、一部の原作ファンはそこに対して文句を言うでしょうが、わたし自身はそれほど気になりませんでした。

それよりも、ちょっと思ってしまったのは、漫画におけるコミカルを表現する「間」を映像で形にするのは、なかなか難しいんだなということ。
「ザ・ファブル」の原作の良さは、殺し屋を主人公にしながらも、殺し屋として育てられてしまった人間の悲哀と、彼が生きなければいけない闇の世界をリアリティを持って描いている点なのですが、それとともに素晴らしいのは、そうした世界観を絶妙な「間」を持って味付けしている点です。

つまりこの「間」がこの作品を重たくしすぎていない役割を果たすとともに、独特な雰囲気を醸し出しており、またこの原作者の個性の特徴を最も表しているのですが、こうした漫画上の「間」を映像として再現するのは、意外と難しいんですよね。

なぜこれが難しいというと、この「間」を映像で表現するには演出と役者の共通認識が必要で、さらに言えば何が正解であるのかが見える形としてハッキリと分からず、あくまで感覚的な話だからなんですよね。

もちろん監督も役者もこの作品における「間」の重要性はわかっていると思います。基本的にそこをなるべき殺さないようにストリーラインも組んでいますからね。ただそもそも役者さんの中でもこうした「間」をとることに長けた人とそうじゃない人がいるので、作品の中ではどうしてもそこは漫画ほどの安定感がなくなってしまうんです。

誤解のないように言えば、「間」を上手くとれていない役者さんが下手だと言っているんじゃないんです。作品や役柄との相性もありますし、そもそもコメディ出身や芸人畑じゃなければ、この「間」をとるのはかなり難しいんですからね。

作品を通じて、ほぼ完璧にこの「間」が取れているように見えたのは、オクトパスの社長役の佐藤二郎さんだけでした。佐藤さんは天性のものとして「間」の取り方に長けているというところもあるのでしょうが、そもそもこの手の「間」を取る役柄を演じることが多いので場慣れしている感じでした。この点に関しては、ちょっと一人だけ抜けてましたね。

ただ全体的に役者は原作の良さを残しつつも、映画らしいアクションを派手にやろうと健闘していたと思いました。主演の岡田さんは安定感のある演技を見せていましたし(あのキャラは何げに無表情が基本で感情を表現しなければいけないと思うので難しいと思う)、ヨウコ役もミサキ役もハマっていたと思います。個人的に特に素晴らしいと思ったのは、小島役をやった柳楽優弥さん。キレた役っぷりに迫力を感じました。

最後に原作との違いという点で、もう一点気になったのは、小島のミサキに対する追い込みの甘さをどう捉えるかというところですかね。原作だと、小島はより際どいところまで精神的にも身体的にもミサキを追い詰めます。かなり露悪的ではあるのですが、そこにリアリティがあり、読者はハラハラドキドキとともに物語に引き込まれるし、最悪なケースをあれこれと想像してしまって結果的に色々と考えさせられるように出来ているんですよね。

でも、映画ではミサキに対するそうしたシーンは出来る限り薄められて、代わりに派手なアクションに置き換えられている。

映画を興行として考えたとき、この選択は現実で妥当だと思います。ただその一方でこうした選択が原作の持つテーマ性を少し薄めてしまっていることも事実なんですよね。

まあ、ミサキへの追い込みの原作そのままに描けば、R指定間違いないところで(ていうか、原作でのミサキへの追い込みは、彼女がPTSDを発症してもおかしくないレベルに酷い)、観客も限定されるし、興行的にも痛いので致し方がないところではあるのですが、このあたりにこの手の原作ものを映像化の限界は正直に感じます。単純にエンターテインメントの型にはめるのではなく、何かテーマ性と両立が出来るようなやり方があればいいんですけれどもね。まあ、それは作品ごとに試行錯誤を繰り返すしかないのでしょう。そこが監督や脚本家の腕の見せどころでもありますしね。

ただやはり面白い作品ではあるので、二作目で終わらずに、三作目、四作目と作っていってもらいたいですね。