「ある行旅死亡人の物語」
著 武田惇志 伊藤亜衣
元々ネット記事だったルポが、書籍になってものです。
行旅死亡人とは、身元不明の遺体であり、官報に情報が乗っているんですよね。
記者が、その行旅死亡人で金庫に3400万円もの現金を遺した尼崎の女性を見つけ、その素性を折ってく形でルポが進んでいきます。
それにしてもこの亡くなった行旅死亡人「田中千津子さん」と見られる状況が謎めきすぎてすごい。
まず最初にいったように金庫に残された3400万円。
ロケットの中に残された謎の数字(これが北朝鮮の工作員ではないかと疑われた)。
右手の指がすべて欠損しているということ(製缶工場に勤めていた時の事故)。
上記の労災金を断り、年金も支給申請をしていない。つまり事故後どうやって生活をしてきたのかわからない。
田中タンくんと名付けられた巨大な犬のぬいぐるみ。
そして大量の写真と賃貸契約に名前がある田中竜次なるものの存在
しかも警察や探偵が調べても何も出てこない。
どうも周りから見つからないように、素性を隠すように40年以上そこで生きてきたようなんですね。
この謎は、下手なミステリーよりもずっと惹かれてしまいます。
さてここからはネタバレになるので、読んだ人のみが読んでください。
記者が調べた結果、奇跡的に彼女の素性が判明します。
驚くべき偶然により、ひょんなことから彼女の姉が誰だかわかるんですよね。
彼女の年齢が遺留品に残されていた生年月日よりも12歳も年上だということがわかり、さらにそれから、彼女の実家や幼馴染、親戚へとたどり着いていきます。
ただどうにもわからないのが、3400万円や謎の数字、それに田中竜次なる人物の正体は最後までわからない。
読み物としては消化不良は残りますが、ただそうした謎が謎のままでい終わるところに逆にルポとしてのリアリティを感じます。
千津子さんの実家は広島なんですが30歳を過ぎてから、大阪市に向かったことが分かっています。
その後、尼崎に移り住むまでの間に何かがあって、逃げ隠れするように生活をすることになるのですが、いくつかの推測がたちます。
まず3400万円について。
これはまず北朝鮮の工作員説が最初に上がりますが、これは元公安警察が否定しているので現実的ではないかと思われます。
単純に宝くじで当たったのか、本人がちょっとずつ貯めたのか、というところが最も納得がしやすい理由です。
ただ何らかの手切れ金だったとか、事件がらみだったのかということも考えられます。
そうした可能性が考えられるのは、夫と思われていた田中竜次という人物が謎過ぎるからです。
賃貸契約書に書かれてあった勤め先も、宿帳に残されていた電話番号もすべて偽装工作として書かれていたことが判明しています。
しかも、千津子さんとは婚姻関係を結んでいない。(千津子さんは、田中千津子ではなく、沖宗千鶴子のままだった)
そして、重要な証言の一つとして、オケダと名乗る人物が一度、千津子さんを探しに、千津子さんの実家に来ているという点。
状況証拠から考えると、大阪で「オケダ」なる人物と知り合った千津子さんが、何かのトラブルに巻き込まれ、「オケダ」から逃げるように尼崎に向かったというストーリーが考えられます。
田中竜次はそのときに千津子さんの逃亡を助けたのでしょうかね。
それが果たしてヤクザがらみなのか、DVとかなのか、何なのかは今となってはさっぱりわかりません。
3400万円についても、そこで得たものなのか、それとも何なのか。
子どもがいたという噂もあり、たんくんと名付けたぬいぐるみをベビーベッドにいれて後生大事に持っていたという点から、子どもがいた、もしくは流産をした、という可能性が考えられますが、そう考えると、やはり大阪時代に男女関係における何かがあったのではないかと勘繰ってしまいます。
ただ労災申請をしていなかったということは、よほど身元が分かることを恐れていたことだけはわかります。
そう考えると、人間、何か本当に出会った人物によって、人生が左右させられてしまうんだなということ。
そして、たとえ優れた才能や目立った地位でなくても、一人一人に紛れもない人生があって、その人生がその人にとってはとても大事なものなのだということを改めて感じさせられました。
結果的に多くの謎が残されたままでしたが、ただ千津子さんの身元がわかり、彼女が家族と同じお墓に埋葬されたのは本当に良かったと思います。
ときにこういうルポを丹念に作るということも、ジャーナリストの大事な仕事ですね。