サンモニで物議を醸し出している大宅映子さんの発言を考える

日曜日に放送されたTBS「サンデーモーニング」での大宅映子さんの発言が物議を醸し出しています。
正確には、大宅映子さんが森元会長の失言問題について長々とコメントしたところ、司会の関口宏さんがそれを遮ってほかの人にも喋らせようとしたことに対して、関口さんがやっていることは森会長と同じなのでは?という声が多く上がっているのです。
わたしも番組をたまたま観ていましたが、個人的な意見としては司会をしていた関口さんに問題はまったく感じず、むしろ大宅映子さんの発言そのものに疑問を感じました。
ネットの記事だけを読むと、女性が長々と喋っているからとか、男性が遮ったからという形だけをみんな見て反応してしまいがちなのですが、まずは大宅映子さんが何を言っていたのかを改めて検証するべきだと思います。

あのとき大宅さんが言っていたコメントをまとめると、
「平等というのは権利とチャンスが同じであって、今に日本はそれについてオープンである。その結果に差が出てきている事は差別ではないし、差別と言ってはならない。男が女のようになってならない、女が長時間労働をする男のようになってなならない。それを(森発言で騒いでいる)女性たちは認識すべきだ」
とこんな感じです。

読んでみるとわかるのですが、この発言だけみると、この人は失言をキッカケに声を上げ始めた女性たちに共感しているのではなく、明らかに森さん側に立った発言をしていることがわかりますし、発言のトーンからは声を上げている女性たちに対する苛立ちや怒りすらも感じました。
つまり大宅さんの発言を改めて見ただけで、関口さんの行為が単純に抑圧的な男性が声を上げた女性の言葉を遮っているという図式に当てはまらないことが簡単にわかります。
さらに大宅さんのコメントを検証してみましょう。

彼女はまず平等と権利について語っており、日本ではまるでそれが達成されているかのようなことを言っていますが、この時点でこの人が問題を何も理解していないということは正直わかります。
まず平等と権利はいつ日本で達成されたでしょうか?
確かに参政権は男女にあり、わたしたちは皆望んで頑張ればどんな教育も受けられますし、どんな会社にも入ることが出来ます。
ただ問題なのは、制度上いくら平等にしようとしたところで家父長性的な考え方そのものが未だに深く根付いており、そういったものが意識の面でそれぞれ作用していて、今はそれが問題なんだと言っているんです。

分かりやすい例を挙げれば夫婦別姓問題です。
確かに制度上は夫の姓でも妻の姓でもどちらでもわたしたかは選ぶことが出来ます。
でもわたしたちの大半は家制度の意識に倣って夫の姓に統一することが当たり前だと考えていますし、それが嫌で逆らおうとして逆らう方がおかしいと世間からは見られてしまいます。
そして問題はそんな話が至るところにあるのだという点です。
例えば子どもの保護者会に出席するのも、役員になるのも圧倒的に父親ではなく母親です。
会社で育休を取るのは母親が当たり前ですし、逆に会社の役員や政治家になるのは不自然なほど年配の男性がほとんどです。
無理やりフィフティーフィフティーにしろと言っているのではありません。
当たり前のように誰かの権力のもとで性別や年齢で様々なことを決めるのではなく、老若男女問わずちゃんと話し合って色々なことを決めるような多様性の意識を持つべきだと言っているのです。

大宅さんのコメントに対して、おそらく男性と思われる多くの人が称賛の声を上げていました。
それはそのはずです。
森元会長の辞任に伴い、森さんと同じような思考を持った人たちはモヤモヤしていました。
でも彼らが今何かを言えば自分が森さんと同じように扱われることは分かっています。
そんなときあろうことか女性である大宅さんが自分たちの気持ちを代弁してくれた。
これは、彼らにとっては自分たちの既得権を守ることにつながるわけだから拍手喝采をしない手はないんですよね。

まあ、男性の場合は、そもそもこと女性が少しでも権利を口にすると、自分たちが攻撃をされているのではないかと感じ、過敏に反論をしがちなのですが、これは間違いです。
多くの女性は男性そのものを攻撃しているわけではなく、家父長性的な在り方そのものに対して批判をしているわけですからね。

本来機会均等とは、制度上だけの問題ではなく、意識の上でも当たり前のものとしてそれが履行されることを言います。
それはジェンダーの問題だけではなく、どのような問題においてもそうです。
例えば教育に関してはどうでしょう。
確かにわたしたちは試験に受かりさえすればどこの学校にも行くことが出来る制度の上にいます。
これまでの時代と比べても中学までは義務教育があり、高校までは所得制限があるものの自治体によっては無償化になっています。
しかし本当にこれで機会均等が達成されているでしょうか?
経済的な格差によって当たり前のように文化資本が違うので、そもそも教育を受けることの意味さえも教えられずにイヤイヤ義務教育を受けさせられる子がいる一方で、万全な教育を受けて有名私立大学の附属に最初から入れる子がいます。
私立の医大には普通に庶民には払えない学費が必要ですし、留学なども簡単に手が届く子もいれば、一方で想像すらしたこともない子がいます。
本当にこれで機会が均等だと言い切れるのでしょうか?

わたしは何も共産主義のように私有権をなくし、努力や能力と関係なしにみんな一緒にしろと言っているのではありません。
文化資本のあるなしを平等にすることも不可能でしょう。
でも、それでもやれる限りのことは、より努力や能力が反映される形で物事を決めるべきだと言っているのです。
そうした観点から見れば、教育もジェンダーも就業も出世も機会均等がしっかりとなされているとは言えません。
現状間違いなく人よりも下駄を履かせてもらっている人たちがいるわけですからね。

森発言の問題は、すでに力を持っている人たちが、もう平等や権利を充分に与えてやっているのだか四の五の言わずに後は自分たちに従えという圧力を安易にかけるなという点です。
そして、まだまだ本当の意味での機会均等まで道のりが遠いことを力を持っている人たちこそが自覚をするべきだという話なのです。

大宅さんは、「男は女のようにすべきではない、女が男のようにすべきじゃない」と言っていました。
では、男のようにとか、女のようにとか、その正解は一体誰が決めるのでしょう?
大宅さんが決めるのですか?
誰かほかの権力者が決めるのですか?
もしかしたら「そんなことは常識的に考えろ」と反論する人がいるかもしれません。
じゃあ、常識とは何でしょう?
それは男と女とも違うし、若者や老人とも違うのでないのでしょうか?
だからこそ、多少面倒でも常に多様性をもって話し合う必要があるのではないでしょうか?

古い家父長制に則した考え方で人を縛り、コントロールするのはもう止めませんか?
それは間違いなく女性だけでなく、多くの男性をも雁字搦めにしている価値観であり、一部の上に立つ人たちがうまいようにやるのための価値観です。
形だけは民主主義になっても、明治時代からかけられているこの価値観の呪いは、残念ながら戦後75年が過ぎてもまだ解けてないんです。
本当に何十年、何百年も前から世間で言われているような男らしく女らしくが正しいかどうかを各々でよく考えてください。
正しいというのは、自分が気持ち的経済的に一番楽な状態なるということではありません。
社会全体にとって良いということです。

番組では大宅映子さんのあとに、短い時間で姜尚中さんが「非正規雇用の女性のことを考えなきゃダメだ」と必死に訴えていました。
大宅さんも自らの地位を脅かすかもしれぬ、まだ見ぬ女性に恐れて嫌悪感を示すよりも、もっと本当に困っている人に目を向けたらいかがなのではないでしょうか?

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