SEALDsのあとでわかった問題は、「忙しすぎるわたしたち」

SEALDsとは何だったのか?「大半が年配の方でした…」デモ後の人生政治に参加する「余裕がない」現実

2015年に安全保障関連法案などへの反対運動の中心となったSEALDsのメンバーの一人を追った記事でした。若者の政治離れが言われるようになってからかなり経ちますが、当時こうした若者たちもいるんだということを知って頼もしく思っていたのを覚えています。

ただ記事中でも言われていますが、確かにSEALDsそのものは若者たちが中心になって活動していましたが、実際にデモなどにいくと、そこにいるのはほとんど高齢者ばかりだったそうなんですよね。SEALDsが目立っていたので、そこにばかり注目が向かって行きましたが、全体でみると若者みんなが積極的に政治参加をしていたと捉えるのは早計なようです。
つまり一部の意識の高い若者たちだけがマスコミに取り上げられて結果的に目立っていた。というのが実情といったところでしょう。

ただわたし個人としては、じゃあSEALDsの行動そのものが取るに足らないもので、結局何も成し遂げなかったとは思っていません。
むしろSEALDsがああやって目立ってくれたことで、声を上げたい若者がいるということがわかりましたし、彼らと声を上げない若者たちとの違いがハッキリとわかるようになったたからです。
その大事な「違い」について、今回このSEALDsの元メンバーがハッキリと語ってくれています。

「若者の社会問題や政治への関心が高まらないのは、学生の主体性の問題ではなく、社会状況の問題だと思います。政治の話をしても『どうせ変わらないし』とネガティブな方向になってしまう。政治を『汚い』ものだと捉えている若者が多いように感じます。しかも、ややこしい。政治離れと言いますが、日本社会では政治が近づきがたいものになっているということだと思います。投票率も決して高いとは言えませんよね」

その通りですね。現役の中高年は「今の若者は…」と言いますが、今の中高年も少し前までは、「今の若者は…」だったんです。つまり、若者の政治離れは全共闘時代が終わってからずっとなんですよね。もう何十年も政治家が民衆と向き合わずに、うまく繕うところだけ繕ってきてしまっているんです。

若者たちも若者たちで、バブル期が来たら、経済的に興隆を極めていたので、政治なんかに目を向けなかった。メディアも政治と折り合いをつけていたから、よほどのことがない限り、細かい悪事には目を向けてこなかった。
わたしたちは、単に自分たちで政治から目を背けただけではなく、ある意味で時の強者たちに、自分たちがやりやすい秩序を守るべく、そう仕向けられてきたところもあったんです。
バブル崩壊後はもっと悲惨です。就職氷河期世代の多くは、会社に入れば不条理なほどのパワハラやセクハラの中でこき使われ、政治のことなど考える暇もなく、今の自分たちの状況がおかしいということに気づく間もなく、働き詰めにされました。
インターネットが広がり、これまで出なかった情報が表に出てくるようにはなったものの、大量に出回った無秩序な情報は、まるで自己免疫作用のように、やがてわたしたち自身をがんじがらめに縛り上げて、社会を分断させだしました。

そしてその苦境は今も続いています。一億総中流の時代が終わり、格差が広がる中で、今や考えるための時間を与えられているはずの学生たちすらも、生きるために働く時間を確保をせざるを得なくなり、自分たちのことでありはずなのに、社会の何たるかを考える余裕すらなくしてきているのです。

今考えれば、SEALDsはそんな状況の中で打ち上げられた花火のような存在だったのでしょう。みんなが考えられなくなったから、考えている、もしくは考えようとしている人たちが目立った。
でも情報に絡めとられたSEALDsとは立ち位置の違う人たちは、SEALDsが続くことを望まず、またSEALDsのメンバーたちもまるでそれが大人になることの振る舞いであるかのように、声を上げていくことを止めていきます。

「SEADLsは『緊急行動』なので、居場所になってはいけない」

これは記事に出てくるSEALDsの元メンバーの言葉ですが、個人的には確かにそれは正解だと思いますし、そうせざるを得なかったのだと思います。

正解だと思うのは、政治活動で何かを勝ち取ったとしても、それは活動をしていた人たちだけが甘い実を食べてはいけないと思うからです。自分が何者かになるために政治活動をしてしまえば、それは必ず本末転倒な話になってきます。注目されてたところで、一旦リセットし、自分たちはそれぞれのフィールドで自分なりに活動を始める。これから続くより若い人立ちのためにも、そのスタンスを貫いたことは、非常に評価が出来る点だと思います。
でもそう思うと同時に、寂しく感じるのも事実です。それは、会社という大きな枠組みの中に入ってしまった時点で、大っぴらな政治活動や発言を続けてはいけないと、若者たちが半ば諦めているようにも感じるからです。

民主主義国家であるならば、学生だろうが、社会人だろうが、他人に迷惑をかけない限りは、自分が思うことを口にしてもいいんですよ。世の中的に常識と思われていることをいかに守るかが大事ではなく、色んな意見をぶつけ合って、社会全体に対してなにをすることがみんなの幸せにつながるのか、それを必死に表明して、考え続けることが大事なんです。

かつて哲学者のハンナ・アーレントは、人間が生きる上で大事なのは、「労働」「仕事」「活動」をバランス良く行うことだと言っていました。「労働」とは家事などのいわゆる生きていくために欠かせない生活をするための行動で、「仕事」は何かを作るなど、いわゆる稼ぐ行動。そして「活動」とは政治や社会のことを考え、何らかの行動を行うことです。現代人は明らかに「仕事」に時間も意識も奪われすぎていることがわかります。明日のパンのために仕事をしなければいけないことはわかりますが、本当に明日のパンのためだけに働いているだけでいいのか、わたしたちは改めて考える必要はあるでしょう。なぜなら民主主義国家というのは、本来国民の多くが「活動」をしなければ成り立たないはずのものだからです。

国民の多くが政治や社会に諦めを感じて無関心になり、それに乗じて一部の力がある政治家や経済人が好き勝手に国を動かしているというのは、お世辞にも健全な民主主義国家とは言えません。日本人は、よくアジアやアフリカにある独裁国家を酷い国だと下に見ますが、形は違えど、結果的に民衆がそれほど「活動」をしていないのなら、日本もそれらの国と大して変わらない国ということになります。今後ますます面倒だからと自分たちで考えることを放棄し、一方で政府に監視の権利を与えてしまえば、こうした傾向に拍車がかかっていくことは間違いないでしょう。

SEALDsの登場は未来に多少なりとも希望を抱かせました。でもSEALDsが退場し、そのあとの世代でそれに続く人がいないということは、民主主義国家としての現状の閉塞感と限界もまた表しています。
声を上げなければなにも変わりません。そして、声を上げないうちに、民主主義が何か別なものになってしまうです。
目の前の自分の仕事に関係がないからと活動から距離を置いているうちに、目の前の仕事のあり方が変えられてしまうかもしれない。
わたしたちはまずはそのことから知るべきなのかもしれませんね。

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