「明日の記憶」

明日の記憶
2006年公開/日本

若年性アルツハイマーの話ですが、もし自分もこうなったらと思うと、非常に恐ろしい話ですね。もはや認知症の原因の大半といわれるアルツハイマー病ですけれど、老人になれば、意外とポピュラーな病名でです。でも身近にそういう人がいなければやはり他人事に終わってしまう話で、現実感はありません。そんな中で、リアルに、しかも老人でなく、若年性の病気を患ってしまった描写をまざまざと見せ付けられてしまうと、病気のことだけじゃなく、生きるとはなんだろうと考えてしまいます。
この物語のすごいところは、たいていの病気を扱った物語の場合、病気にすでになっている、もしくは物語の冒頭でその病気になってしまい、そんな病気になった主人公もしくは、その恋人や家族とともに闘っていくという話になるのが普通なのですけれど、この物語は違って、病気になっていく過程を克明に描いているところです。そもそもアルツハイマー病自体が進行は遅れさせられても、現代の医学では治療が出来ない病気で、立ち向かうことがとても難しい病気なのです。
よってこの病名を描くことを決めている時点で、希望を捨てずに、という話にはならず、壊れていく自分とは何なのか、そしてそんな自分と向き合っていくにはどうしたらいいのかを、病気になった本人と、それを見守る妻との視点で自然に見せていくことになるのです。
故にこの映画は、基本的にこれでもかというほどに壊れていく主人公の様子とそれに戸惑う妻の姿を追っているだけで、そこにはこれ見よがしなセリフもなければ、感動の押し売りもありません。あるのは淡々と語られる現実だけであり、そしてその現実が人間くさく、観ている人間の気持ちをいつの間にか揺り動かすのです。
この映画の監督が、エンドクレジットを見て、堤幸彦監督だと知ってちょっと意外であったのですが(こういう文芸作品よりもエンタメ作品を作っている印象のほうが強いですからね)、主人公が壊れていくさまを描いた演出は見事であったと思います。気がついたら、妻を鈍器で殴っていたりとか、道がわからなくなってしまう様とか、社会から阻害されつつある自分が、アルツハイマー病だけでなく、精神的にも追い詰められていってしまう様などが、渡辺謙の鬼気迫る演技もあいまって非常によく表現されていたと思います。
特に妻との昔の思い出を断片的に思い出し、過去と昔の狭間でその境界線がだんだんわからなくなっていってしまう流れは秀逸でした。人間、どうしても輝いていたときの自分を自然と思い出してしまい、そこが基準になってしまうんですよね。そりゃ壊れていく自分を頭の半分で認識しなきゃいけないという想像も絶するぐらい精神状態に追い込まれてしまうのだから、楽しかった記憶に逃げてしまうのが当たり前なんですよね。
感動するっていうよりも、色々なことを考えさせられる映画でした。だいぶ前に島田紳助が、思い出を作るために人生がある、といっていたんですけれど、でもその思い出がなくなってしまうとはとても恐ろしい話ですよね。それは本人だけでなく、その思い出を共有している人間にとってもつらいことですしね。いったい何のためにこれまで生きてきたのか、ちょっとわからなくなってしまうに違いありません。
ただ個人的にこの映画が最後まですごいなぁと思ったのは、きれいごとで済まさずに、現実を最後まで見せつけていることです。記憶がなくなるなんてことに対して、それをどうこういうだけの言葉をわたしたちはまだ十分に持っていません。じゃあ、そういう現実にぶつかった人やその家族は、何にすがって生きればいいのか、となると過酷な現実に向き合うしかないのです。

渡辺謙演じる主人公は、結局半ば自分の意志で施設に行くのですけれど、これは一つの選択であると思います。施設という言葉は、とても冷たい印象を受けてしまい、そんなのは酷いという人もいると思うんですけれど、実際その立場になってみれば、それは間違いなく現実的な選択の一つであり、またそれを選んだからといって家族も気に病むことはありません。当の患者だって、自分の大切な人間に負担をかけたくないと思うのは、普通ですからね。
妻がもらってきた施設のパンフレットを主人公の渡辺謙が見つけてしまったあとで、一瞬ひと悶着あるのかなと思いきや、黙って一人でその施設に向かった主人公の行動に、彼の妻に対する愛情と優しさが見られて、ちょっとジーンと来てしまいました。
こういう過酷な運命を与えられないと、なかなか生きるということや愛という言葉の本質に、気づくことが出来ないのが人間なのかもしれません。