「勝手にしやがれ」
1960年/フランス
言わずと知れたヌーヴェルヴァーグの記念碑的作品であり、フランソワ・トリュフォーが原案、クロード・シャブロルが監修、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めた作品です。ゴダールにとっては初の長編映画ですね。
この映画の不思議なところは、映画を観ているという感覚よりも、どちらかというと純文学の小説を読んでいるような感覚に陥るという点です。
まあ、作家の個性を貫き通すヌーヴェルヴァーグの作品だけあって、観ている観客にどうだと言わんばかりにグイグイとミシェルとパトリシアの二人の関係性であり、個性でありを見せつけていきます。
それでいて、決して観客を飽きさせることもなく、二人の関係性となりゆきだけで一本の映画を魅せてしまうのだから大したものです。
ジャンプカットの多様やこれまでの映画の概念を無視した演出など技術的な新しさが語られることの多い作品ですが、内容的に観客に妥協せずに、かといって観客が心の底で求めていることを描き切っているからこそ、映画史に残る作品になったんだと思います。
実際、ジャン=ポール・ベルモンド演じる主人公のミシェルは、冷静に考えるとただのクズな人間でしかないのですが、そのクズな人間の中にある刹那な部分を説教染みたセリフなく描き出しているので、そんなに嫌な気分にはさせず、彼がどうなってしまうのかをついつい見守ってしまうんですよね。
当時の若者にとって、彼らを代弁してくれる映画であるからこそ、彼らに支持された映画であったのだと思います。
ジーン・セバーグ演じるパトリシアに関しても、単純に性的な意味で魅力的であるというだけではなく、彼女が男性から自立をしようとしている女性だからこそ魅力的なのであり、これもまた若い女性たちが本音で求めている姿であったわけですしね。
28歳でこんなものを作ってしまうゴダールはすごいと思いますが、この映画ってたぶん若くなければ撮れない映画でもあることは間違いないです。
低予算でも映画が作れるような技術革新があり、そして若者たちもそうした文化を映画に求めていた時代だからこそ生まれることが出来た映画なんだと思います。
ヌーヴェルヴァーグ自体は、この後その担い手たちが年を取っていくうちに自然と商業主義に取り込まれていきますが、新しいものを作って行こうという気概というか、精神はいつの時代にも必要なものなのかもしれませんね。