「世界にひとつのプレイブック」

「世界にひとつのプレイブック」
2013年/アメリカ

なかなか考えさせる映画でした。
妻の浮気を目撃し、浮気相手をボコボコにして精神病院に入れられていたパットが退院して家に戻ることから話は始まります。
接近禁止命令が裁判所から出ているにもかかわらず、妻であるニッキとの復縁を信じてやまず、問題行動を起こすパットを見て、映画を観た人の多くはおそらくウンザリすると思います。
大多数が、もしもこんな人が家族や友人にいたら大変であり、出来る限り距離を置きたいと考えるしょう。
物語は、そんなパットがティファニーと出会うことで動き出します。
彼女は、夫が亡くなってしまったことで心身のバランスを崩し、問題行動の上に仕事を解雇された女性です。
同じように精神病を患い、家族から腫物を扱うように扱われているという意味では、二人は似た者同士なんですよね。

二人は少しずつ近づいていきます。
ただ問題は、パットはどこまでも過去に取り憑かれていて、しかもティファニーに対しても、彼女よりも自分の方がまともな人間だとして、マウントを取るんですよね。
そして、そうした彼の態度によって、映画を観ている人は、パットに対して見方が変わります。
そもそもパットは妻の浮気によって、精神が崩れたというどこか同情的な見方をしていたはずなのに、見ている人は、否が応でも、妻が浮気する以前に、パットに問題があったことに気づかされていくんです。
それが最もわかるのは、パットとティファニーとの会話の中で、ティファニーが以前のパットの結婚生活について触れるシーンです。
パットはニッキとの結婚生活において、激しく喧嘩をし合うことや何週間も口を利かない状態が続くことに、夫婦ならよくあることで、それは当たり前のことだ考えており、それにも関わらず浮気をしたニッキとその浮気相手だけが悪いと思い込んでいるんですよね。

ここまできて薄らと見えていたテーマがようやく明確に浮かび上がってきます。
なぜパットがそのような考えをする人間になってしまい、ニッキとの結婚生活が破綻してしまったのか、そのそもそもの原因を考えると、自然にわかって来るんです。
パットは最初から危険な人物で、「正常ではない」考え方をする人だったのでしょうか?
本当に彼だけが異常で、正常とされる他の人たちはどこもおかしくないのでしょうか?

物語は、パットとティファニーのことだけを描いているのではなく、パットの家族、とりわけパットの父親について丹念に描いています。
ロバート・デ・ニーロ演じる父親は、息子を精神病者と扱う一方で、自分はまともな人間であると疑っていません。
でも、話をよく見てみると、この父親はギャンブル中毒のノミ屋であり、家族に対してキチンと向き合っているわけでもありません。
本当は自分でもどうしたらいいのかわからないくせに、父親という家父長制的な威厳を盾に誤魔化し続けてきたことがそこかしこに醸し出しています。
おそらくパットが「激しく喧嘩をし合うこと」や「何週間も口を利かない状態」が続くことが夫婦として当たり前だと考えているのは、この父親がそうだったからであり、そのロールモデルの下で育ってしまったからこそ、そのように考える人間になってしまったのです。

そして、そうした親から子への悪影響が見えてくると、そこで描かれる社会が違って見えてきます。
正常と異常の境界線がいかに曖昧で、いかに不平等であるのか。
実際、映画の中ではパットとティファニーと、病院でのパットの友達だけが「正常ではない者」として描かれていますが、「正常」の側にいる人たちは、パットの父親も含めて本当に「正常」であるのか怪しくなってくるんですよね。

アメフトの試合で狂ったようなふるまいをするファンたちなんかもう見ているだけで常軌を逸していることがわかりますね。
父親以外に目を向けても、パットの兄は、パットに優劣の差を見せつけることで、精神的な安定を求めていますし、それはティファニーの姉も同じです。
そしてティファニーの姉も、夫を縛り付け、階級を維持することで精神を安定させています。
つまりは、誰もが生きることに不安を抱えており、そして多くが何とかやり過ごしているだけなんです。
でも、やり過ごしているだけでは、本当の幸せの意味がわからないんですよね。

そのことに唯一、気が付いていたのは、ティファニーです。
彼女は、だからパットに自分の弱さをさらけ出し、それに対して、当初パットの弱さに素直にならずに、ティファニーを見下すことで自分の心の安心を見出そうとしたことに怒ったんです。

ようするに健常な人と、精神のバランスを崩した人って、そもそもそんなに変わらないっていう話なんですよね。
日本では、精神に問題を抱えている人は、とにかく線を引いてその外に起きたがりますし、そうした社会風土があるから、精神の不調や不安を口にすることも憚られ、とにかく我慢をすることを強いられます。
自分自身と向き合い、自分の弱さを口に出せる社会こそが成熟した社会であるはずだし、多くの人に幸せをもたらすことは考えなくてもわかることなのに、どうしてもそれが出来ないんですよね、みんな。

こういう感覚の作品は、まだまだ日本では作られないかなとちょっと思いました。
「ぐるりのこと」とか素晴らしい映画もあるにはあるんですけれどもね、こうした弱者に対する視線を考えた上で、ちょっとまだ日本は社会的も文化的にも途上段階であると思います。

いやあ、良い映画でした。
ただ難を言えば、ラストが、否定されるはずの父親の賭けによってカタルシスが起こりまとめられてしまっていること。
作品として成り立たせるために、こうせざるを得なくなってしまった気がしますし、これはこれで面白いけれど、こうした安易なやり方をとらずに、もっとテーマに沿った形で最後まで描いてほしかったかな。
あと、パットとティファニーが結ばれること自体は良かったのですが、それで全部ハッピーというのも、ちょっと物足りなかったです。
父親の問題とかは結局放置されたままですし、パットとティファニーについても、お互いに病気と付き合いながら生きて行かなければいけない分、良いことも悪いことも起こりうる、それをわかった上でも二人で生きていくっていうところまで二人で生きていたいっていうところまで描いてほしかったです。個人的には。

でも、非常にいい映画であることは確かです。
特にティファニーを演じたジェニファー・ローレンスの演技はとてもよかったですね。
この作品でアカデミー主演女優賞を獲っていますが、納得です。