ユザワヤで想った大事なこと

子どもたちが習い事をしている場所の近くにユザワヤがあります。
手芸用品や生地、ホビー用品などを手広く扱っている店舗です。
服飾を自分でやっている人やそのほか手芸や編み物をやっている人、はたまたコスプレーヤーなどとにかく自分自身で何かを作っている人には御用達であり、非常にありがたいお店です。
子どもたちが習い事をしている間、妻が何かを買う用があるときにわたしもこの店に行くことがあるのですが、何かとてもホッとします。
わたし自身は別に服飾や手芸に興味がある訳ではなく、置いてあるものを見ても正直区別もつかないのですが、何て言うのでしょう、完成品を売っていないという空間、そして何かを作り出そうとしている空間に身を置くことで、自分たちはパッケージされていない人間であるのだという感覚を改めて思い出すんですよね。
別に服飾関係でも、そうじゃなくてもいいんです。何かこれからそれを使って作り出せるもの、またはその余地があるものを売っている空間であるならば。

先日もそんな感覚でぼんやりとユザワヤの中を歩いているうちに、不思議と中学生1年生のころを思い出しました。
実は中学1年生の時にやたらとプラモデルに凝った時期があり、一瞬本気でプロモデラーになりたいと思っていた時期があったんですよね。
きっかけはプラモ好きのバイブルである「プラモ狂四郎」と友達の家で読んだ「ジオラマ大作戦」という2冊の漫画。
「プラモ狂四郎」についてはほとんど説明は要らないと思います。ある意味ガンプラを世に広げた漫画です。
問題は、もう一冊の「ジオラマ大作戦」というマニアックな漫画。何気にこの漫画に影響を受けたんですよね。
主人公の少年がジオラマ作りの中で、ジオラマの中にいかにストーリーを見出して、それを作品としていかに表現出来るのかを問い詰めていくという話なのですが、「ジオラマ」というフィールドで自分の世界観を作っていくという感覚にとても惹かれたんです。
結局、年齢が上がっていくにつれて高校受験などで現実に向かっていかねばならず、いつしかプラモデルを作ることもほとんどなくなってしまったのですが、あのときのぼくは確かに恵比寿にあったMr.クラフトという模型専門店にしょっちゅう通い、いかにプラモデルを自分らしく改造するのかとか、自分ならここで売っているものを使ってどんなジオラマを作るのだろうかとか、そんなことばかりを想像してしまいました。

今の用の中には、洗練された既製品で溢れています。
既製品の方が楽だし、安く済むし、実際に自分も身の回りのものは既製品ばかりです。だからもちろん既製品がいけないとは思ってないし、言うことは出来ません。
ただ何でもかんでもが大量生産によって作られたモノで、自分で作り出したものが身の回りに何もないというのはあまりに寂しい感じもします。

何でもいいんです。価値がないものでもいいんです。
形あるものでなくてもいいし、情報や空間といった漠然であるものでもいい。

ただそれが他人の評価やニーズに合ったものではなく、あくまで自分が好きだから、自分でそれを作りたいと思ったから作ったものであればいいと思います。

ユザワヤを歩いていて、何だかとてもMr.クラフトにまた行きたいなと思いました。
残念ながら、Mr.クラフトは十数年前に閉店して、今はカラオケ店になっています。
別にカラオケ店が悪いといいたいわけじゃないです。
ただ模型店でも手芸店でも、自分の想像や妄想を広げてくれるような空間、そんなお店が世の中にもっとあれば、そういうお店を世の中の人たちがもっと欲してくれれば、世の中はもう少し優しくなるような気がします。

安くて、わかりやすくて、即効性があるモノ。それを求めてしまう気持ちはわかります。でも、そういったものは自分らしさというものを決して与えてはくれません。
自分らしくあること。
それはわたしが思い、わたしが作ること。
あなたは誰ですか?と聞かれた時に、肩書や年収ではなく、自分がどういうことを考えている人間なのか。それを語れる人でありたいです。