今、全国の小学校で「あだ名禁止ルール」が広がっているそうです。
確かに、娘の学校の参観に行った時に、先生がすべての子に「さん」づけしていたけれど、そういう理由だったのですね。
禁止の理由は「あだ名」がいじめのキッカケや助長に繋がるから。
わからないでもないです。確かに嫌なあだ名をわざと呼ぶ子は多く、相手を呼ばれたくないであろうあだ名で呼ぶことで、相手をマウントしようとするのはもはや人間の性なのかもしれません。
ただまるっきり「あだ名」を禁止してしまう、という発想には寂しさと違和感を覚えます。
呼ばれてうれしいあだ名もあるだろうし、あだ名で呼び合うことで親密さを感じることが出来るからです。
確かに「あだ名」はイジメに繋がる可能性があります。それは否めません。
でも「あだ名」=「イジメ」ではないことも確かです。
「あだ名」のニュースを聞いて、そんな風に「あだ名」についてあれこれと考えていたところ、わたしは小学生の頃の友達に「クッチ」というあだ名で呼ばれていた少年がいたことを思い出しました。
3年生のクラス替えのときに、初めて同じクラスになった子です。
特徴的なたらこ唇をしていたから、「クッチ」とそのまま呼ばれていました。たぶんほとんどの子はただそのままみんなが呼んでいるから呼んでいただけで、クッチ本人も嫌がるそぶりをまったく見せることはなく、むしろ「クッチ」と呼ばれることを自分も楽しんでいるように見えました。
クッチとは一年間、サッカーなどを一緒にしてとても仲良く遊びました。
すごくいい奴で、いつも笑っていて、クッチが誰かと喧嘩をしている場面など、まったく記憶にありません。
でもそんなクッチとのお別れは突然やってきました。それはちょうど3年生が終わるタイミングでした。
彼は引っ越しをすることになり、転校することになったのです。みんなに親しまれていた子だったので、お別れ会は盛大になり、泣いている子もたくさんいました。
と、これだけだと、ただクッチがいい奴だったという話です。
でもこの話には続きがあります。
クッチが転校してから、ぼくは1,2年生のときにクッチと同じだった子から、クッチについてのある真実を何気ない会話の中で聞かされました。
それはクッチのトレードマークであり、クッチというあだ名の元となったたらこ唇についての話です。
その子の話によると、クッチは2年生の時に交通事故に遭い、そのときの怪我かもとでたらこ唇になったという話です。
「早くそれを言ってよ!」という話です。
子どもながらにそのときに自分の中でジワジワと後ろめたさのような感覚が生まれてきたのを覚えています。
でも、クッチは「クッチ」と言われて喜んでいたじゃないか。
まさにその通りです。子どものときのわたしも自分でそう思いこんで、自分の中の後ろめたさを消し去ろうとしました。
でも、クッチが本当はどう思っていたのかはわからない。本当は嫌がっていたかもしれない。
それもまたその通りです。クッチはいなくなってしまった以上、もはや確かめようがない話ですが、大人になればなるほど、やはりどうしてもそのことを考えてしまい、同時にそんな不幸な事故のことなんて一言も言わずに、クッチと呼ばれてみんなと仲良くしていたM君は、何と大人な人間だったんだろう、と思うようになっていきました。
確かに人が嫌がる「あだ名」は言うべきではありません。
でも一律にそれをすべて禁止してしまうということは、あだ名によって生まれる人間関係のすべてを失ってしまうことでもあります。
教育現場において、すべて禁止にしてしまった方が楽だというのはわかります。
でも、問題は「あだ名」そのものではなく、「あだ名」をどう使うかであり、それについて子どもたちがどう意識するかです。
一番は人が嫌がる「あだ名」は言わないことであり、それを使う人間が意識をすることです。
でも、子どもにはそれがわかりません。大人にだってそれが分からない人間がたくさんいます。かくいうわたしだって、「クッチ」の例が示すように、それがそんなに悪いことだと思わずに人を「あだ名」で呼んできたことはたくさんありまし、呼ばれていたこともたくさんあります。
じゃあ、わからない人にわからせるためには、どうすればいいのか。
一つは言われて嫌な思いをしている人が自分で「そのあだ名は嫌だから止めてくれ」ということです。
でも、それは言われている方からすれば、とてもハードルが高いです。
そもそもそれが言えない上下関係をすでに作られている可能性が高いことと、あとは「嫌だ」と言っても、その反応を面白がってさらに言い続けるという負のスパイラルに陥ることも充分にあります。まさにそれは虐めの始まりですね。
じゃあ、どうすればいいのか。
肝心なのは、周りじゃないでしょうか。先生が気づいたのなら、先生が注意する。これは当たり前です。
この場合、たまに先生も一緒になって面白がり、当該生徒の名をあだ名で呼ぶ場合もありますが、これは論外です。
そして、周りにいる子たち。ここが重要です。
虐めに繋がるようなあだ名はどうしても先生が見えないところで使われる場合が多いです。
でも周りにいる子ならそれに気が付くことが多いです。
そのときにどれだけ勇気をもって、「そんな風に呼んじゃダメ」かと言えるか。
問題は、みんなであだ名を使って面白がっている時に「水を差すな」という暗黙のルールがすでに小学校時代から子どもたちの間で存在していることです。
これは子どもたち独特の現象ではありません。間違いなく、大人たちがそうしているから、子どもたちが真似をしているのです。
思い起こしてください。
会社でも、家庭でも、わたしたちは空気を読み過ぎて、本当に大事なことを言っていないことが多々あるのではないでしょうか?
空気を読んで場を取り持つことは時に大切な場合もあります。
でも、本当に大事なことは空気など読まずに、たとえ相手が誰であろうと言うべきなのです。
子どもは、それを言えない大人を見ています。だから、悪いことだとわかっていても、言わないです。自分が面倒に巻き込まれなければいいとついつい思ってしまうのです。
勇気を持って空気を壊すことはとても難しいです。
特にそれまでそれが正しいことだと信じて生きてきた大人にとっては、難しいでしょう。
でも子どもたちは違います。そもそもそれが悪いかどうかがわかっていないのですから。
でも、大人が何もしなければ、子どもたちはただ単に大人たちがやっていること真似て、ただ面白がって「あだ名」を使い、大人と同じように空気を読むようになります。
そして大人がもう「あだ名」は面倒だから全部禁止と言えば、子どもは面倒なことは「全部禁止」にしてしまえばいいと思うようになってしまうでしょう。
大事なのは、一つ一つのケースをそれぞれがちゃんと考えることです。
「あだ名」一つ一つにも人間関係があり、なぜそれが生まれたかがあり、それがどう使われているのかがあります。
もちろんそれを全部先生が把握しろというのは酷です。
でも、生徒に促すことは出来ます。先生だけじゃなく、親だって周りの大人だって教えることは出来ます。
自分たちが発する言葉が相手にどう響くのかをもっと考えてほしいと。
そして、自分が間違っていると思うような言葉を使う人がいたら、それを注意する勇気を持ってほしいと。
「クッチ」ことM君が今、どうしているかなって思います。
知らなかったことは罪ではないと思うけれど、もっとあのとき君の気持ちを聞いておけばよかったと、今は彼に謝りたいです。