「絶唱」
著 湊かなえ
湊かなえさんの阪神淡路大震災の記憶を軸に描かれた作品ですが、それまでの作品と印象がかなり違うのでかなり驚きました。
四本立てで最後の章がおそらく作者の実体験に基づいた私小説に近いものかと思われますが、その経験で感じたことが動機づけとなり、見事に一つの作品として仕立て上げているのですね。
震災での経験があったからこそ、この人は作家になったのかなと、この作家さんの原点を描いている作品でもあるような気がします。
作品として面白いなと思ったのは、四つの章がそれぞれ別の主人公の視点で描かれているため、同じ人間でも章によって全然違う印象を受ける点です。
特に目を引いたのは、三番目の章の主人公である杏子の描き方です。
最初の章に出てきたときの彼女は、虐待の疑いすらあるだらしのない母親という印象をどうしても持ってしまいます。
でも、便宜的にその手の色のキャラを使いっぱなしにするのではなく、杏子側の視点でしっかりと彼女がなぜそこまで追い詰められているのかが語られていることには、非常に好感が持てました。
視点を変えることで、物語やそこで描かれる社会の重層性を表現するというやり方は、オムニバス形式の作品では常套手段でもありますが、震災を軸に視点を変えて描くという点で、この作品ではとても有効にそうしたやり方が使われていると思います。
それにしても、個人的に最終章の「わたしは(僕は)あのとき〜、と自分のことを語りたがるのは、境界線のもっと外側にいた人たちばかりなのです。」という言葉には唸らされました。
これは本当にその通りなんですよね。
でも境界線の外側にいた人たちが悪いというわけでもなく、ただ当事者性の差異だけがどうしても現れ出てしまうんです。
問題はその差異を鑑みることがお互いに出来るかどうかという話になると思うんですけれど、これが難しい。
しかも仮にその差異がわかったところで、じゃあどんな態度でどんな言葉をかけたらいいのかというと、これがさらにわからないんですよね。
阪神淡路大震災のあと、東日本大震災で、程度の差こそあれ、東北や関東に住む人たちも当事者になりました。
たぶん作者は境界線の外にいながら、かつて自分が悩んで解決出来なかった宿題の答えを少しでも埋めようとしてこの小説を書いたのではないでしょうか。
確かに最終章だけを切ってみると、私小説過ぎるきらいもありますが、そこまで作者自身の当事者性に踏み込まなければ、この小説は生まれなかっだのだと思います。
決して何かの答えを教えてくれる話ではありませんが、この小説は境界線の差異に気がついてしまった人に、そっと手を差し伸べてくれる、そんな話だと思います。