「タッチ」 著 あだち充

「タッチ」 著 あだち充

80年代を代表する名作漫画ですね。
あだち充さんの漫画にはハズレがありませんが、その中でもダントツに面白く、売れたのがこの作品です。
同年代に生きた人は、誰もが「タッチ」という名前だけでなく「上杉達也」や「浅倉南」といった名前を聞いたことがあるかと思います。

さて、そんなあまりに有名な本作ですが、残念ながら多少誤解して記憶している人が多いようです。
多くの人がこの物語に典型的な三角関係を主軸とした野球漫画という印象を持っているのですが、それは違います。
まずこの物語は達也と和也という双子の二人に対して南が悩むというわかりやすい形の三角関係ではなく、あくまで三角関係の亜型なんですよね。
その証拠に漫画を全部読めばわかりますが、南は最初から達也に対してのみ恋愛感情を抱いており、それは和也がいくら活躍しようと、新田という魅力的な人間が現れようと、1ミリもブレないんですよね。そしてそのことを達也も和也も感づいているというところから始まる物語なんです。

よく和也は優等生過ぎるが故に、読者からはあまり人間味のない感情移入されにくい人物のように思われていますが、よく読んでみるとそうじゃないんですよね。
スマートな雰囲気を醸し出している和也こそが達也と南が相思相愛だということを知って焦っており、だからこそ南の願いである、彼女を甲子園に連れて行くということを叶えることで、立場の逆転を狙っていたんです。
達也と南は、和也のそうした気持ちを知っているからこそ、相思相愛である二人の関係を進められないわけだし、明確に口に出すことも幅かわれているわけです。

そして、和也にとって一発逆転の日である甲子園出場をかけたその日の朝に和也は事故に遭って死にます。
これから三角関係が始まろうというその時に、一人が欠け、残った二人は死者と三角関係を続けなくてはならなくなるわけです。
和也の死は物語の3分の1あたりの出来事ですが、残りの3分の2は、達也と南の自分たちのうちに秘める後ろめたさとの戦いになるんですよね。
つまりこの作品のテーマは、野球で勝つことでも、三角関係における恋愛でもなく、あくまで死者に対する残った者の後ろめたさであり、それにどう自分の中で気持ちの決着をつけて行くのかというところにあるんです。
最初の単行本7冊分を使って前振りをするという壮大な話なのですが、ここを和也がいるこの時間を丁寧に描いているからこそ、和也の死後、達也と南の心情が真に迫ったものになっているんですね。

ちなみに何でもこなせる和也ではなく、当初は怠け者でしかなかった達也に対し、なぜ南が好意を寄せたのかという疑問がありますが、これも物語を読み進めていくとよくわかります。
優等生過ぎるが故に、選ばれし者という雰囲気を漂わせてしまう和也に対し、達也はどこまでも自然体で、そして人に対する差別を一切見せません。
実際、彼は同じ男子からは誰からも親しまれています。
武骨な故に一匹狼である原田が、達也にだけは心を許すのは、達也が原田に対して色眼鏡で見ることなく、あくまで一人の人間として接しているからです。
その可憐さから誰からも特別扱いされている南に対する達也の態度も同じで、和也ですらどこか南を特別視ししてしまうのに対し、達也はどこまでも南を幼馴染の頃から同じように扱い、その平坦な関係性を保っています。
南にとって、達也だけが素直な自分でいられる人なんですよね。
和也はそれをどことなく理解しながらも、達也と同じようには振る舞えない自分を知っていた。
だから、優等生になり、甲子園に行くという「力」を誇示するしかなかったんです。
でも、それでは南の心は動かないんですよね。

和也の死後、達也はとりあえず彼の遺志を継ぎ、南を甲子園に連れて行くという約束を果たそうとします。
彼にとっては、それだけが和也に対する後ろめたさから脱する術がなかったんですね。
そして、達也は須見工を破って甲子園出場を決めます。

この作品が甲子園での明青学園の活躍を描くでもなく、また甲子園出場を決めて終わるのでもなく、中途半端にところでプツッと終わるのは、あくまでテーマが達也と南が和也の死による後ろめたさからいかに脱するかにあるからです。
甲子園出場後、甲子園の開会式まで淡々としたエピソードがいくつか続きます。
アニメや映画では割愛されてしまいましたが、この何気ない時間の中で、目的を達してしまった後の心のやりどころのなさがまさにテーマの核なんです。
甲子園がこれから始まるというのに、達也はなかなか前に向けない。
南も新体操のインターハイ出場が決まっているのに、全然、練習に身が入らず自信を失っていく。
甲子園出場という和也に報いるためだけに生きてきた二人にとって、実際に甲子園が決まってしまった瞬間に、そこに自分自身の気持ちがないことに気が付いてしまったんですね。
甲子園の開会式を仮病で休んだ達也は、南に会いに行き、そして愛を伝えます。
ここで、二人は初めて当事者性を持つことが出来、和也への後ろめたさにも一旦終止符を打って(その後もその都度苛まれると思いますが)、自分たちのストーリを築き上げていく決心がつくわけです。
二人にその決心を持たせるために、紡ぎあげられた話なんですよね、この作品は。

いやあ、これは間違いなく歴史に残る名作です。
連載を通して一つの物語としてこれだけ完成度のレベルが高い漫画は稀有じゃないでしょうか。
ぼんやりとしか内容を覚えていない人には、ぜひとももう一度読み直してほしい作品ですね。