「バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTⅡ」

「バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTⅡ」
1989年/アメリカ

人気シリーズの第二作であり、ある意味でシリーズの中で一番「バック・トゥ・ザ・フューチャー」らしさを出している作品だと思います。
興味深いのは、このPARTⅡという作品は、PARTⅢという存在ありきで制作されているという点です。
今でこそ、前後編で訳で公開される大長編の映画はチラホラとありますが、このシリーズのPARTⅡとPARTⅢはその走りだと言えるでしょう。
ただ映画の時制的には繋がっているものの、PARTⅠの公開から少し時間を置いて、PARTⅡとPARTⅢが一緒に制作され、さらに日を置いて公開されるというのは極めて珍しい展開だと思います。
それにしても、完全に制作側の意図でしょうが、PARTⅡの終わり方はこれみよがし過ぎて観客を大いに焦らしますね。
かくゆうわたし自身も中学生の時にこの映画を劇場で見たのですが、観終わった後にPATTⅢがどうなるのか気になり過ぎて、結果ノベライズされた小説(小説は少し前に販売されていた)を買って先に読んでしまういう禁じ手を使ってしまったことを覚えています。
確か、クラスの多くの男子がやはり次の展開が気になっていて、それを知ってしまった自分は、まるで少年ジャンプを土曜日に手に入れた時のような優越感に浸っていました。

さて、そしてこの「バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTⅡ」という作品ですが、先に興行的に大成功を収めたPARTⅠという作品があり、あとにすぐ公開が続くPARTⅢという作品があるという、この特殊な編成に挟まれていることこそが、この映画の特異性を醸し出していると思います。
つまり、通常の映画の場合、話を起承転結でまとめるのですが、この「バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTⅡ」という映画の場合、起承転結の起の部分は、PARTⅠで設定をすべてちゃんと説明していて、観客がそれを知った上で観ているのでまるまるなく、また結の部分もPARTⅢにそのまま投げてしまっているのでないんです。
ようするに起承転結のうちで、間の承と転だけで成り立っているそれ単体として不思議な構成で成り立っている映画なんですよね。
そして、制作側もそれがわかっているので、そうした構成を逆手に取っています。
タイムトラベルの映画であるので、醍醐味は何と言っても、過去や未来を行ったり来たりすることです。PARTⅠやPARTⅢはあくまで過去に戻るということに焦点が置かれた映画であることに対して、このPARTⅡは、未来に行き、現代に戻り、また過去に行くという複雑な展開を見せています。
こうした時間による場面の転換こそが観客を大いにワクワクさせます。
近未来の世界では、自分たちが生きる数十年後はどうなるんだろうという想像力を掻き立てますし、現代の自分たちの生きる世界が変わってしまったという現実は、大いにわたしたちを追い詰めます。そして、1955年の過去に戻るというのは、PARTⅠをすでに見ているという前提の観客にとっては、デジャビュを経験させるので、単に過去に戻るというのではなく、観客自身も映画に参加しているような気持にさせてくれるのです。
こうした複雑な流れを、起承転結の中でわずか2時間で収めるには無理があるんですよね。
そして、とにかく複雑な時制の変わりようの中で、次から次への起こるトラブルやデジャビュをこれでもかと連ね続け、それを最後まで貫いているというのがこの「バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTⅡ」という作品なんですよね。
これは起があり、結がある、普通の編成であるなら、こうしたタイムトラベルという設定を面白く使ったぶっ飛び感は醸し出せず、PARTⅠとPARTⅢがあるからこそ、構成上思い切ったことが出来る仕組みにPARTⅡはなっているんですよね。
おそらく最初はPARTⅡは、PARTⅡだけでまとめて話を作る予定だったのかもしれませんが、おそらく制作のどこかの地点で、PARTⅡとPARTⅢをいっぺんに作った方が、効率よく、またPARTⅡで思い切ったことが出来るとわかったんでしょうね。
その大胆さと大きな予算でそれをやらせてもらえるハリウッドの強みを思い知らされます。
PARTⅠを観ていないとその面白さが半減するという作り方もビックリですし、PARTⅠを見ているからこそ、繰り返し描かれるデジャビュをうまく活かしているという点で、この映画というかこのシリーズがタイムトラベル物の金字塔であることは間違いないです。
ただあまりに面白さを追求するあまり、PARTⅠで見られたようなテーマ性が、PARTⅡ単体にはあまり見られず、PARTⅢに持ち越してしまっていることが、このPARTⅡという作品の弱点と言えば弱点なのですが……まあ、面白いのでいいでしょう、と大いに思わせてくれる作品です。